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合理と直感の狭間で

最近、合理であることや論理はひどく退屈だと感じるようになった。

もちろん、他人を説得したり、集団を一つにまとめたり、動かしたり、納得を得るためには一定の論理や整合性の取れた考え方を語る必要はある。

しかしながら、個人的にはとても退屈で面白みがないと感じてしまうのだ。

そこそこ地頭が良く、本をそれなりに読み、一定の教育を受けてきた人間ならば、その知性や思考回路にそれほどの差は生じ得ない。

所詮同じ人間であるし、その経験やバックグラウンドが相似していればいるほど、その論理性も共通項が多いだろう。

同じインプットを与えて、考えさせ、コンセンサスを取ろうとするなら大抵同じような結論に行き着く。

ここに個性は生じ得ず、もっと言うと誰が考えても同じなのだ。

だから正論や合理の極みは本当に面白みがない。
沢山のデータや傾向から導き出された仮説が大抵鋭くなく、的を得ない事が多いのもそういうことだろう。

そう考えると、論理はもはや人間のするべき営みではなく、むしろ妄想や空想、直感をとにかく研ぎ澄ませるための訓練や習慣をつける事が、

このダイナミックな社会を生きる上では究極の差別化になるのではと思っている。
要は奇人・変人に積極的に変貌していく事が実は最適解なのかもしれない。

ぶっ飛んだ発想やアイデア、それをためらいなくやってみて実践知を溜めていくこと、それによってどう自分が感じたか、思ったか、
こういう気付きを集約し、次のアウトプットを磨いていく事が面白みのあるオリジナリティを作っていくものではなかろうか。

身近には抜群に優れたAIが普及し、論理の世界を侵食しながら、進化を遂げてきている。
もうまもなく、論理の世界はリプレイスされ、人の出る幕は殆どなくなるかもしれない。

AIには表現しきれないもの、到達できないもの、論理の帰結ではないものを探求していくことが、向こう10年の人の主な営みになりそうである。

論理はほどほどに、直感や自分だけのセンス、感じ方を大事にしていこう。

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