-少女、ひとり


 その声は確かに聞こえるけれど、私の回線は随分前に切られているはずだ。
 この部屋にきてすぐに切られた回線。もう外部との通信は必要ないと、するべきでないと、そして何よりも、私はもう世間様にとっては存在しないものと同じであると思い知らされたそれから、声が聞こえた。
 私はまだ生きているのだ。と、場違いな感慨が湧いて出た。
 切られたはずのその回線を利用できる人間がいるとしたら、それはきっとこの部屋を管理している連中よりもずっと上等な人生を約束された誰かだろうけれど、私にそんな人物と知り合いだった記憶はない。私の知っている富裕層といえば、それこそジョンドゥくらいのもの。

 頭の中に飛んだクエスチョンマークが視界の隅に可視化される。ぽこん、と浮かんだコミカルなフォント。

 「ジョンドゥ、」
 彼であるという確信はなかったけれど、彼でないという可能性もまたないに等しいレベルで少なかったから、私は呼びかける。ジョンドゥのほんとうの名前を私が知らないのは、彼がそこにフィルタを用意できるほどの高等市民であるか、そうでなければ「システム」に精通した――もしかしたら、その管理をあずかる立場であるかもしれないくらいに――人間であるか。それを考えると、私の知る人物の中では、こうして私に回線を繋げる立場、もしくは技術、そのどちらかを持つ可能性をあるのが彼だけだったから。
 それでもなお確信がないのは、彼、ジョンドゥが今私に声を掛けてくる意味、理由が分からなかったからだ。人間である以上心理的な動きというものはあるはずで、気が向いたから、と考えればそれまでなのだけれど、それでも、そう、私はジョンドゥに見捨てられたはずで。

 「ジョンドゥ、というのは、名前のない男という意味だよ、レディ。」

 声は私の思考を遮るように、脇道にそれたのを元の道へ戻るように誘導するかのようなタイミングで言った。

 「それは知ってる。あなたは男だから、それだけは合っている、と言いたいの。」

 どうにか彼の導く正しい道へたどり着こうと返した疑問は、どうやら彼の思惑通りだったらしい。
 そういう意味では、私はジョンドゥに違いない。
 笑いを含んだ、さも愉快そうな声がする。
 そうだ、あのジョンドゥも、こんな不愉快な時に、愉快そうに笑う男だった。それが私には気に食わなかったものだけれど、今になってみれば、あの時のそれは私の若さゆえの、若気の至りとも言えるような「はねっかえり」のそれだったようにも思える。
 腹立たしく思った過去の諸々を思い出し、そしてそれらを懐かしんだ思考がログとして開き始める前に、また彼の声がした。

 「……君は、見守るんだ。君は母になった。世界の母に。私は以前にも同じように、素質を持った者を管理者にしたことがある。何度も。けれど成功したのは初めてでね。」

 曰く。私が「母」になった。それは彼のかねてからの悲願にも近い思いがやっと実を結んだ、とでも言えるようなもので、彼は「世界を見守る母たる私」を見守るのだと。だから安心してくれ、なんて言ってもいたけれど、それに関しては何に、何を安心すればいいのかがひとつも分からないので置いておく。

 正直、何を言っているのかさっぱり分からない。
 より正確に言うと、言っていることの意味はひとつひとつくみ取れる、理解できる、けれどそれがこの文脈においては何一つ意味を持っていないか、もしくは私の知る意味、理解した意味とは別の意味を持っている。
 何度も脳内を行ったり来たりする、混乱の主な原因たる、母、という言葉の意味を、私の視界の隅がまた、ポップアップして教えてくれる。

 はは【母】
  親である女。比喩的に、物事を産み出すもと。

 言われなくても知っている。やかましい。
 ちかちかと煩いそれを、視線一つで消去した。

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