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孤高の傑作 Brasserie d'Orval Orval

古典を学ぶことで見えてくる未来があるような気がしています。神話でも古楽でもいいし、小説でも絵画でもいい、今日まで続く何かの流れの中においてマスターピースとされるものを知っておくと前触れ無く訪れるチャンスボールをホームランに出来るかもしれない。少なくとも、バットにかすらせることくらいは出来るだろう。困った時はまたそこに戻れば良いのです。名作、傑作たちは優しくまた何かを伝えてくれるはずです。

私にとっての大事なマスターピースの一つがベルギーのトラピスト修道院で作られているOrval(オルヴァル)です。このビールは新しい時も美味しいし、寝かせても美味しい。そして、その時々で全く違う表情を見せてくれます。

オルヴァルでは一次発酵を4週間、二次発酵を3週間かけて行われますが、二次発酵の際にブレタノマイセスを含む独自の酵母を使用します。また、特徴的なのは大量のドライホッピングをすることも挙げられます。スティリアンゴールディングスを1000Lあたり36kgだそうです。瓶詰め後に新たに酵母を加えて5週間発酵してから出荷します。飲んでみると他の修道院タイプには全く見られないホップの風味と苦味、そしてドライなフィニッシュ。フルーティなアロマだけでなく、ブレタノマイセス由来のランビックっぽいキャラクターも感じ取れます。10年ものくらいまでは飲んだことがあるのですが、寝かせておくと苦味は減退しつつもランビックっぽい酸味や香味がどんどん出てきて飲むたびにその違いに驚きます。ちょっと薬草っぽいニュアンスを感じたこともありました。ドライホップをしたベルジャンペールエールと説明されることもありますが、それでは説明が足りなさ過ぎます。古くからあるお酒ではありますが、既存のビアスタイルには当てはまらない唯一無二の存在だと思います。

オルヴァルはとても不思議な魅力に溢れたお酒です。いつ飲んでもオルヴァルは違う。だから多くのブルワーの心をくすぐるのでしょう、オルヴァルインスパイアとでも言うべきビールがたくさんあります。Goose Island Matilda(グースアイランド マチルダ)などはその典型で、それをブルワリー自体が表明しています。プロが憧れるお酒というわけです。

以前ベルギーに行った時、オルヴァルインスパイアビールを実際に作っているブルワーと話をしたことがあります。アントワープから西にしばらく行ったTurnhout(トゥルンハウト)という街の郊外にあるBrouwerij Het Nest(ヘットネスト醸造所)を訪問し、ヘッドブルワーのBartさんが語ってくれました。

オルヴァルはすごい。クローンイーストも手に入るけれど、ああならない。ブレタノマイセスの風味とドライホップを合わせ、長期熟成にも耐えるものに仕上げるのは難しい。

彼のオルヴァルインスパイアビールはSchuppenAas(スフップンアース)と言います。酵母にはWyeast(ワイイースト)社製のものを使っていると言っていたので、TRAPPIST STYLE BLEND 3789-PCを使っていたのでしょう。アレンジとしてスティリアンゴールディングスではなくアメリカのホップを使っていて、本家に比べると少々あっさりした感じではありましたが、オルヴァルを知っていると「にやり」とする仕上がりでした。

こんなに魅力的なのだから仕方のないことなのかもしれませんが、近年オルヴァルの評価はうなぎのぼりで需要も年々増加しています。それに合わせて生産量も2002年に4000klだったのが2012年の段階で7000klまで増えたそうです。確かにオルヴァルは素晴らしいビールですからその評判は正しいと思います。しかし、もう限界です。のっぴきならない問題も発生しているのです。

トラピストビールとして認定されるには幾つか要件を満たさなければなりません。国際トラピスト会修道士協会に加盟していることが大前提です。その他の条件については国際トラピスト会修道士協会のウェブサイトに記載がありますが、条件の一つに「修道院の僧侶によって、もしくはその監督下で作られなくてはならない」というものがあります。しかし、僧侶の高齢化が進んでいて大半の方が70歳を超えているそうです。若手が入ってこないのでどうしようもなくなってしまっているのです。今時、出家する敬虔な若者はいないのですね・・・日本も同じでしょうが。

宗教生活の一環で行っているビール醸造がその生活自体に影響を与えるようでは本末転倒です。オルヴァル修道院のウェブサイトでも語られているように、もう限界まで来ていて出荷調整もしています。装置産業でもあるビール醸造ですから、設備を増やして僧侶以外の人間をもっと動員すれば増産は可能でしょうが、それではいけないのです。

ビールはお酒ですから嗜好品として好きに愉しめば良いでしょう。しかし、生活や信条、思想も反映していてお金と引き換えにはできないものでもあるのだと改めて思います。売れれば良いというものでもないわけです。もしかしたら遠くない将来オルヴァルは飲めなくなってしまうかもしれません。飲めるうちに是非試してください。液体に宿る「格」のようなものがきっと感じ取れると思います。

酵母もホップも手に入るのだけれども、日本のブルワリーはオルヴァルインスパイアビールを作っていないようです。少なくとも私の経験では出逢ったことがありません。日本のブルワーにもオルヴァルの魅力を引き継いだビールに挑戦して頂きたい。オリジナルではないけれど、そのイデアが遠くに透けて見えれば次の時代にその美を伝えることが出来るはず。文化とはそうして続いていくものだと思います。


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