見出し画像

「李白が山を観るとき、山もまた李白を観ている」・孤立から繋がりが生まれる

「驢馬が井戸をのぞき込むとき、井戸もまた驢馬を観ている」

昨日、大阪の島本辺りの「若山」という山中に撮影の仕事で分け入った。

道なき道をゆくような果てに、久御山・八幡・枚方を眺め入る頂上近くの開けた場所に辿りついた。

撮影の後に、来た山中の下りは足腰の自信がなかったので、遠回りだが勾配の緩やかな道を降りて貰うことにした。

山の反対側に降りていくとまた少し開けて山手の住宅地が眺望できる所へでた。

そうしたら、ベンチが置いてあって、なんか造作物もあって、そこから下りは山道が整備されていたので、ここまで上がってきて、ベンチに座って景色を楽しむ人がいるのだろう。

この山道を「太閤道」ともいうらしい。秀吉ゆかりの道らしい。

詳しいことは知らないが、この場所で太閤さんも山々(国)を眺め、国(自然・宇宙)にも眺められていたのかもしれない。

その時代のリーダー達は、こうして「内と外」との対話が出来ていたのかもしれない。

自分の野望もあるが、内も外も、眺め、眺められることに依って、敵とも一(ひとつ)になり天下を治めることが出来たのかもしれない。

その時代の民は「自分のこと(一方向)」しか考えられなかったのかもしれない。(自然や宇宙とはより繋がっていたとしても、眺められている感、自分を宇宙側からも観ている自覚はなかったかもしれない)

そう考えると今の時代は、「リーダーが自分の事(一方向)」しか考えられずにいて、民は内と外との対話の可能性に気づき始めているのかもしれない。今の政治にしても戦争にしてもそのように感じられる。

さて、昨日太閤道で発見した「ベンチ」ですが、付近に「国有林の為に撤去して下さい」と書かれた杭が立ててあった。

私が地域で展開させて頂いている「置きベン」は歩道や公園など公共の場に置くのではなく、個人の自宅の敷地内に置くことを大切にしている。歩道や公共の場に勝手に置くことは許されていない事もあるが、加えて、個人の自宅の敷地に置いたベンチに座って「町を眺める」ことに何か大切な事が孕んでいると思われる。

「李白が山を観るとき、山もまた李白を観ている」

ベンチから町を眺める時、町(の人々)もまたベンチ(に座る私)を眺めている。

そうして、内と外との対話が始まる。孤立から繋がりが生まれる。人と町が繋がる。人と人が繋がる。

個と全体の関係性に民が気づき始めている今こそ、「置きベン」の活動にも意味意義を見出すこともできるであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?