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「早けりゃいいってもんじゃねぇんだよ」

山の苗木畑で働いている。


4月。毎年一番最初の仕事は、幼苗を抜いての選別。苗床に種をまいてスギとカラマツは1年で、トドマツ、アカエゾマツ、ヒバは2年で、広い畑に植え替える。大きさ別に畝をかえるので、2~3段階に選別する。この作業をする度に、思い出しては初心に返る言葉がある。


1年目。目の前の苗木が、何の種類かもよくわかっていない。言われるまま、長さや太さを見る。10㎝と20㎝のところに線が引かれた、30㎝長さの板を渡される。自信がないので1本ずつ当てて確かめる。

問題は太さだ。細い苗木と太い苗木。爪楊枝と鉛筆くらいの差がある。長い苗が太いとは限らない。ひょろ長いのは容赦なく捨てられる。何㎜とは指示されない。「これくらいのは捨てて」見て覚える。いや、覚えられない。

同じ太さの苗木が、細いものばかりの中では太く、太いものの中では細く感じる。「だいたいでいいよ」と言われるが、気持ちばかり焦る。さらに、それだけではない。枝を切って整えたり根をそろえて切ったりもする。


苗木の幼苗と聞いて、大きな木をそのまま小さくした形を想像しませんか?わたしも、そうでした。実際は全然違う。カラマツはほとんど棒。竹串や割り箸みたい。スギはふわふわでニンジンの葉っぱみたいだし、アカエゾマツは鳥の羽根のよう。見たらきっと違いにびっくりする。


いちばん木っぽいトドマツの苗木は、1本1本がじつに個性的。将来、クリスマスツリーみたいな形になるように整えていく。はじめはわからないので、いちいち隣のベテランさんに聞く。

すっくと存在感のあるヤツはそのままで。先が2本に分かれているのは、まっすぐなほうを残して切る。頭がたくさんあるものは、なるべく真ん中のを残す。「どうしてこうなった」な盆栽みたいに曲がったのは救いようがない。おっと。よく見ると頭が枯れて、横の葉っぱが太くなって伸びようとしているものもある。騙されないように気をつけないと。


森や林で生まれたならば、どれも立派な1本の木だ。形や成長する早さが違っても、時間が経てば堂々とした存在になる。ところが管理された山に植えられる苗木には規格というものが存在する。大きさ、形、成長の早さ。すべて同じものが要求されるのだ。


木が好きだからこの仕事に飛びついた。山に植える木を育てる。未来につながる、なんて夢のある仕事だろう。なのに自分の判断で命の選別をするなんて。なるべく救ってあげたいけど…。……わたしがそんなこと考えてるの、先輩は誰も知らないだろうなぁ。


みんな黙々と作業をしている。こっちの隣のお兄さん、後ろには選別された苗木の束が積まれている。私よりひと回り以上も若い。角度の入った銀ぶちメガネ。顔に似合わずとても器用だ。「早いですね」と言ってみた。かえってきた言葉が

「早けりゃいいってもんじゃねぇんだよ」

こわっ!なに?ほめたのに。


何年かして、彼の言った言葉の意味が、ようやくわかってきた。

選別して束ねられた苗木たちは、雪を敷き詰めた冷蔵倉庫で一時休眠させる。すべての種類の苗木の選別が終わり、北海道に遅い春がやって来た頃に新しい畑に植え替える。その時、選別した束が誰の手に渡るか、わからない。きちんと整えられた束は次の仕事がしやすいのだ。

束の一部を左手に持ち、1本ずつ植えていく。きれいに切りそろえられた根は、からまない。枯れ葉や雑草などのゴミも取ってある。「なんだこれ」という苗は混じっていない。スムーズにできるのは、この束を作った人のちょっとした気づかいだ。

前の音楽の仕事は自分ひとりで経営していた。自分のやりやすいように考えていればよかった。ここに来てはじめて、協力して働くということを覚えた。この年で。ちょっと遅いけど仕方ない。親への反抗から進路を間違えた。人生をやり直している今、いろいろな人から学ぶことは、やたらと多い。


8年目にもなると、指でつまんだだけで太さが分かるようになった。可哀想だと入れていた細めの苗は、結局、乾燥に弱くしなびてしまうこともわかった。長さの板も必要ない。たまに確認する程度。でも苗木の個性が強すぎて、いまだにベテランさんに聞くこともある。なんて奥が深い。まだまだだな。

「早けりゃいいってもんじゃねぇんだよ」

わたしは毎年4月、何度も自分に言い聞かせながら、初心に戻って選別の作業をしています。



ところで、あのお兄さん。角度の入った銀ぶちメガネは、いつからか優しい形に変わりました。メガネの奥の目は、いつも笑っています。こわいのではなく、無口でぶっきらぼうなだけでした。


人を見かけで判断してはいけません。














                               









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