【掌編】胡蝶蘭は中間管理職(第2話)
雨が降ると忘れ傘が増える。
都合の悪い現実は、他人の記憶の中に置き去りにするのが得策だ。
冬に縛られた季節は溶け出し、世界が不安定さを増していく証拠に、にわか雨が降る。
傘は、店に置き去りにされる。
「ねぇ、なに考えてるの?」
ときどき、この子は人の内側を探ろうとする。
それは、敵ばかりの戦場でガチガチに囲った防護壁がまったく無効であることを意味する武装解除命令なのか最後通告なのか。
暖かいロウソクの炎にも似た色合いの薄暗い照明の中で、自分の本音をうやむやにしてみようと試みる。
「ん?・・・別に・・・」
すべてを許容する懐の深さと、すべての罪を購う懺悔。
そんなものを求めているのだろうか。
「そう?・・・元気ないね・・・」
あざやかな斑紋を纏った蛇のように狡猾に人を貪るというほど、残酷ではなく。
かといって、うぶで真っ白で世間知らずな女というほど、お人よしでもない。
曖昧さはシステム全体のロバストネスを補完し、多様なオプションはクリティカルな状況になる前のリスクコントロールにつながる。
はて、この店は何の店なんだろうか?
「ねぇ〜」
この猫撫で声は、危険な会話の始まりのサインだと思うことにしている。
地震雲程度の信頼性だが。
「・・・なに?」
「考えてくれた?」
「・・・なにを?」
「・・・・・・なんか、冷たい・・・」
「・・・あああぁぁあ! 思い出した! ちがうちがうちがう もちろん考えてるさ! 始めっから考えてるよ!」
「正直に言いなさい。怒らないから。」
「・・・あ・・・・の・・・・」
「・・・・」
「・・・ごめん・・・まだ、悩んでる・・・」
敗北を認めさせるには、そのほうがメリットが大きいのだということを理解させることと、その代わりの出口を提供することが大切である。
無駄に追い詰めても必死に抵抗されるだけなのだ。
「どうして?」
「だから・・・あのぉ〜・・・あ、おなかイタイ・・・あれ?・・・イタタタタ・・・」
「幼稚園児みたいなウソつかないの」
「よろこんでっ!!」
「・・・知ってる・・・あの、駅前の新しい居酒屋さんでしょ?・・そのかけ声みたいの・・・」
「よく、ご存知で」
「こんど、連れてってよ」
「え?やだよ・・・」
「なんでよ。いいじゃない」
「めだつから」
「え?そんなの気にすんの?」
「するさ。一般市民だよ。おれ」
「あたしも、そうですけど」
「・・・ですよね・・・」
他人が自分と異なると感じるのは、瞬間的な防御反応にすぎない。
話してみれば、なんのことはない。
同じ人間である。
ただ、これまで危うい均衡の上でバランスをとっていた「自分」という幻想を、見知らぬ異質な世界観で打ち砕かれるのを恐れるが故に、排除という免疫的反応が生じているだけなのだ。
閉鎖的な隔離病棟は実は開いた空を持ち、見慣れた景色に目を凝らしたとき薄っすらと浮かび上がるのは、閉じた次元に括られた子供と、破壊的な衝動に操られた獣の舌である。
「ねぇ~」
そう言って、この子は自分の右手を伸ばし、シャツを捲くってテーブルに乗せていた僕の腕に、ヌルッとした何かをなすりつけた。
男には似つかわしくないハンドクリームのフローラルブーケの香りが、僕の前頭葉を包み込んだ。
「え!?なにこれ」
「まーきんぐ(笑)」
【つづく】
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