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柴田淳という人の、日常になじむ歌と声

日常の中で、ふいに口からついて出る歌がある。
それは自分にとって納得感のあるものだったり、「何でこの曲?」と思ってしまうものだったりする。

たとえば、私が中学生の頃からずっと繰り返し聞いている斉藤和義の曲が口をつくのは当然だけれども、どう考えても自分の世代ではない「山口さんちのツトム君」が口から洩れることもあったりするので、我ながら興味深い事象だと思っている。

そうした曲のなかにあって、結構な頻度で口ずさんでしまう歌がある。
柴田淳の「なんかいいことないかな」だ。

若い女性が日々の中で「なんかいいことないかな」と穏やかにうたう曲…という説明で完結させることもできてしまうのだろうけれども、それだけの言葉ですませるのはとてももったいない。ということで、彼女の音楽について思うことを少し書いてみる。
(あくまでアルバムを数枚聴いた程度の自分に語れる範囲で、にはなるけれども)

彼女の歌は良い意味で一定の温度とテンションを保っていて、ぼんやり聴いているとその声の穏やかな心地良さに満足してしまい、うたっている内容にまで耳が届かないこともしばしば。
でも、歌詞に耳を傾けるとそれがただの美しいだけの世界ではないことに気付く。現実の日常を生きる女性がこぼした言葉を、決して生々しくはない表現で音にのせているのだ。

彼女の音楽には、やわらかな重さがある。
軽やかというには一定の湿度を含んでいるような重力を感じるし、地面に立っているのに不思議と重心が高いところにあるような浮遊感もある。
それはまるで、目の前の日常をうまくやりすごしながらも心はどこか遠くをみているような、現実を生き抜いている女性そのもののように思える。
そして、どうも私はその重力のあるやわらかさにやられているようなのだ。無意識のうちに。

「現実を生き抜いている女性」の一人(のはず)である私の心に、柴田淳の歌はするりときれいに入り込んでいる。彼女の音楽に出会ったのはたぶん10年以上も前だけれども、こうしていまを生きる自分の中にそっと根を張っていることを思うと何だか不思議な気持ちになる。

きっとこの先も、幾度となく「なんかいいことないかな」と口ずさんでいくのだろう。それは決して悪くないことだ、と思えることが嬉しい。

余談ですが、同じく柴田淳の「ぼくの味方」という曲もお勧めです。


※文中のミュージシャン名は敬称略で記載しています

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