期待を裏切ってもいいから、人様に迷惑をかけなければ、自分の幸福を追求して生きていいはず。
國分功一郎著「目的への抵抗」を読んでいると、「人間らしさ」という概念が登場した。 ホモ・ルーデンス、とか、ホモ・サピエンスとか、一つ一つの意味は覚えていないが、人間を固有の特徴で定義づけようとしてきた事実は知っている。 しかし、私は別に人間とは何か、について興味はない。 こう言うと多分、「お前は獣と同じでいいのか」という意見が飛んでくる。 が、私は獣と同じ動物で構わない。 まず自分が動物だということを忘れていた。 人間の子に生まれて生活してきたから、人間社会の中で
(8日前くらいに書いたものです) おカネ稼ぎや何かの案出しなど、実利的な行為に疲れたとき、休憩したくなる。だから散歩をしたりした。 その理由は、 「散歩という目的を持たない行為では」「目的を持って活動していると目に入らないものが見える」 からだ。 あれ、でも、この散歩の利点自体も、実利的な目的を達成/充実させるための利点じゃないか、と思った。 散歩する →新しいものが目につく →新しい案が思いつく とかね。 目的のない散歩っていうのは、たぶん、ただただ散歩がし
恋愛しててさ、告白なりなんなりで、 甲が乙を好きで/乙が甲を好きだ、 と互いに分かったとき、 甲と乙が「付き合う」ことになるのは、なんだか変だと思った。お風呂上がり。 互いに好きだったことが分かった瞬間、 どうして乙は甲の「彼女」「彼氏」になるんだろう 急に名前のついた役職を与えられるのはどうして? こういうことを一緒に話していた友達に彼氏ができた。急に 以前はこんな話題で考え合っていたのに… 恋愛は(恋愛的手段を以て干渉できない)他者にはどうしようもないことだ
好きな物語ほど、 自分自身のこと・現実のことだと 思いたがるのだと気がついた
江國香織の「がらくた」を読み始めた。 撫でるのが素晴らしく気持ち良い背表紙の、幅、色、材質、丸み
⚠️小説本編の内容が含まれます。ちょっとだけ。 本稿は、江國香織さんの「ウエハースの椅子」(新潮文庫)を読んで書いたものです。では、以下本編。 この作品も、高校2,3年生のときに一度読んだのだと記憶している。読み直したということ。 「神様のボート」再読時と同じく、こんなに苦味とか絶望とかが主題に掲げられていたのか、と驚いた。 初読時の僕は大変に満ち足りていて、幸せだったから、この小説からは蜜を吸ってばかりいたんだろうな。 分かりやすく甘いシーンが多く(分かりやすく甘い飲
表題の「看板と read me の等価性」は先ほど投稿した記事ですが、 これは大学に帰り道に歩きながら思いついたことを、思いついた順番に書いたものです。 ただ、思いついたひとつひとつを後付けで、できるだけロジカルに繋げているに過ぎません。 なので、一つ一つの考察はもともとある程度独立していたもので、それらの考察を初めて思いついたときには、記事に書いていたような接続詞を使っていたわけではありません。 だから、初めて考えたときの私の脳内と記事の内容は、流れは同じにしても、理
看板とは、何かを利用する者へ向けたメッセージを書き、固定されたものだ。 read me とは、主にはパソコンで、あるプロジェクトをダウンロードしたとき同じファイルに入れてある、注意書きとか、取扱説明書とか、そういった類のものだ。 私は、この二つが等価なんじゃないか、だと直感的に感じた。 どちらも、 ・何かメッセージを伝えている ・あるものを利用するときに見える場所に固定してある という点が共通しているからだ。 そして、この二つは、なんとなく「次元」は違う気がする。 と
コピー用紙の側面を指に当てて、スッと引いたら、直線状の感覚が生じる。もしかしたら皮膚が切れるかもしれない鋭い感覚。 この"感覚"を頭の中で"イメージ"できるのは不思議ではないか?どのような原理か? 感覚をイメージする、のである。
文章、絵画、音楽、& 映画 …まだあるかもしれないが、芸術の代表的な形態として、これらがある。 これらは互いに本質的に共通、そして相違する箇所を持つ。その箇所をここ数日でいくつか思いついて、楽しい。だから、文章にしてしまう。作文。 まず、文章と音楽には絶対的な方向性がある。 文章は1行目の1文字目,2文字目,………,そして2行目の1文字目………という順番で、紙面上をある規則にのっとって読まれる。 いっぽう、音楽は1小節目,2小節目,………,と時間の流れる向きに合わせて演
すなわち、例えば、新しいゲームを始めたら、そのゲームのプロゲーマーになって大会で優勝するとか、 ピアノを始めたら世界的ピアニストになって音楽ホールいっぱいの拍手を浴びるとか、 誰かが好きになったら大勢の前で披露宴を開き結婚して、甘い愛を囁き合うとか。 中学受験のときにはもう既にこの癖があったことを覚えている。 でも、行きたい大学に受かってもさほど感動しなかったことで"夢"への幻滅が始まった。そのことで、自分の中では、そういう名声とか夢とかを叶えること自体に達成感はそんなに
「神様のボート」でもあったように、人は自分の生きる楽しみが無くなると、よく「私はなぜ生きているのだろうか」と問う。 同様に、例えば単発のアルバイトが、1分で意味不明な同じ作業を6時間続けるというものだったら、「私はなんでこの作業をしているのだろう」と思うだろう。 つまり、自分の行為が無意味で楽しくないと感じると、「なぜ」と問う。その行為の意味や楽しさを見出そうとする(正当化しようとする)。 では、それはなぜか。 何のために、「なぜ」と問うのか。 これを考えるとき、大抵は
まだ煙草を吸わない代わりに江國香織を読んでいる、ような
なんで靴下は下着じゃないんだろう
私には「嘘を吐いてはいけない」という強い観念がある。 だから、噓を吐くか意識上(に近い状態で)迷った場合は、たいていやめることにしている、と思う。だからほとんど嘘は言わない。 ただ、無意識でしてしまうことは、たまにあるのだろう。 さて、「噓を吐いてはいけない」のはなぜか。 仮説1:他人を傷つけるから。 書こうとしたけど、具体例が思いつかず。どなたか、他人を傷つける嘘を思いついたら、教えていただきたいです。 仮説2:嘘を吐く人は、いけない人だから。 嘘を吐く「行為」ではな