「看板と read me の等価性」のメタ・・・理由とは何か


表題の「看板と read me の等価性」は先ほど投稿した記事ですが、
これは大学に帰り道に歩きながら思いついたことを、思いついた順番に書いたものです。


ただ、思いついたひとつひとつを後付けで、できるだけロジカルに繋げているに過ぎません。


なので、一つ一つの考察はもともとある程度独立していたもので、それらの考察を初めて思いついたときには、記事に書いていたような接続詞を使っていたわけではありません。

だから、初めて考えたときの私の脳内と記事の内容は、流れは同じにしても、理論が保存されているわけではありません。


これを考慮すると、やはり、理由なんて後付けに過ぎないんじゃないでしょうか。思考するときは、初めは完璧に論理的なわけではなく、甘い論理性のまま色々考えている中で、気に入った説を選んでいき、後から理由を付け加える、というのが実際なんじゃないか。

とある実験について聞いたことがあります。ある(例えば政治的な)意見を被験者に聞かせた後に、ダミーの実験を一通り終えた後、実験者がさり気なく政治的な意見を問うと、被験者はダミー実験前に聞いた意見を、あたかも自分の意見であるかのように述べる、というものです。

つまり、人間は自分が自分で本当に判断して思ったことのみを常に純粋に言っているわけではない、ということです。意識しているかはともかく。
そして、このような、他人の発言の影響は全ての発言に少なからずあるはずだと思うのです。
この場合、自分の主張が他人に干渉されているのです。自分の主張の"理由"ではなく。

だから、自分の主張というのは、時間的に先に存在する理由が発展して生まれていくのではないんじゃないか。
時間的に、「理由→主張」の順番で思いつくとは限らず、「主張→理由」の順番で決定していくことも、大いにあるんでしょう。



まとめると、言いたいのは、
理由が後付けなこともざらでしょ、ということ。

だから、理由の妥当性で安心する行為には注意が必要でしょう。



…こんな結論でいいのだろうか。

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