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聖書タイム2022年3月「上を向いて歩こう」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
「とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
「おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春の雨のように
我々を訪れてくださる。
ーー  旧約聖書・ホセア書6:3

確かに越冬したとは言え、はっきりしない英国の春。まんさくの黄色い花が咲き、黒々とした大地からはクロッカスが顔をのぞかせます。水仙の蕾も膨らみだし春の序曲が始まったというのに、冬前から尾を引く私たちの悩みはどうでしょう。解決した人、もやもや状態が続いたままの人、悪化したと顔を暗くする人、様々でしょう。

果たして冒頭聖句のように、主は「大地を潤す春の雨のように我々を訪れてくださる」でしょうか。長引く問題をどうにか乗り切るにはなんと言っても忍耐が問われます。が、問題が居座り、巣くい、あなたや私を四面楚歌、雪隠責めにしているように思えませんか。右も左も前も後ろも、動きようのない状態がずっと続く足踏み状態です。

いったい、どうすればよいでしょう? 答えは「四面楚歌でも上はあいている」、つまり「上を向いて歩こう」です。辛くても無理して、胸を張って歩いて、ヘイチャラな振りをするのではありません。冒頭の聖句をもう一度。「主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春の雨のように、我々を訪れてくださる」― これを書いた預言者ホセアの視点は上を向いています。曙の光、降り注ぐ雨、大地を潤す春の雨などは全部、目をあげないと見えないものばかり。大地とは自分の足元ではなく地平線です。

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問題がある時、悩みが深い時、その原因をアイデンティファイするのは当然で、辛いと感じるのは自然です。けれども、そればかり見つめ、暗い部分を見て「こんなはずではなかった」などと言っていては、暗闇に自分が振り回されるだけ。問題の多くは大抵、不可抗力ですからジタバタしても始まらない。

ガリレオ・ガリレイは天動説か、地動説かで取り沙汰されましたが、人間の問題解決の場合は「天動か自己動か」という漢字になりそう。でも、私たちが四面楚歌、にっちもさっちも行かないと思っていても、実はそうではありません。先程は「上があいている」と書きましたが、下も含めて全部で六面、まるごと私たちは主に抱えられているのです。聖書は次のように語ります。

「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手に乗せて運び足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく」
―― 詩篇91編11~13

よく「問題があったら神様に委ねなさい」と言う言葉を耳にしますが、自分から委ねなくても、既に主が担ってくださっていることに私たちは気づいていないのです。私たちにできることは暗闇を見つめず、上を向いて差し込む光と恵の雨を見ようとすることだけ。

子供が危険にはまった時、父親は腕を差し出してこう言います。「さあ、おいで。お父さんの顔だけを見て。下を見てはだめ」と。これは問題から目を逸らせということではなく、自分を救う方に焦点を合わせることです。諦めの境地から「なる様にしかならない」というのも、どうでしょう。神様は私たちが祈りを通し自分の望みを訴えれば、それに耳を傾け、思い直してくださる方です。

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旧約聖書に登場する、「信仰の父」と呼ばれる族長アブラハムは神様と直談判し、その結果、神様は悪の栄える町ソドムを滅ぼす計画の一部を見直され、アブラハムは自分の親戚を救うことができました。一方、アブラハム自身が試練を受けた際、彼は一言も神様に訴え出ませんでした。長いこと子供がなかった彼でしたが、やっと一人息子イサクが与えられました。ところが神様はアブラハムの信仰を試そうと、「一人息子をいけにえとして捧げなさい」と命じました。その時、アブラハムは「やめて下さい」、「考え直して」、「イサクだけはご勘弁」等々、いくらでも言えたはずなのに、直談判どころか、文句も言わず淡々と従いました。

旧約聖書創世記に書かれている場面は次の通りです。アブラハムとイサクは朝、数人の若者達と一緒に家を出ました。目的地に着く途中、同行者達に「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行って礼拝をして、また(二人一緒に)戻ってくる」(創世記22:6)とアブラハムは言いました。神様が示された場所に着くと、息子が担いできた薪の束を祭壇の前に降ろさせ、イサクを縛り、薪の上に寝かせ、いよいよ刃物で手を下そうと。その時、御使いがアブラハムの手を止め、イサクは助かり、茂みにいた牡羊が代わりの捧げ物として用意されました。こうして親子は、途中で待っていた若者たちと合流し家路を辿りました。アブラハムは神様を信頼していたので、「『私たち』は戻ってくる」と言ったのでした。

今、神様の恵を待ち望みましょう。主が訪れてくださるのを待ちましょう。そして心が挫けそうになったり、神様への信頼が自分の弱さの故に、揺らぎそうになった時は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコによる福音書9:24)と言いましょう。主は私たちの弱さをご存知で、アブラハムのためにも茂みの中に牡羊を用意してくださったように、不足分を完璧に補い準備しておいて下さいます。上から注がれる光を見上げて歩けば、私たちの道は必ず照らされます。どんな時も。そして春の雨、恵の雨は必ず豊かに降り注がれます。

「恵の業をもたらす種を蒔け
愛の実りを刈り入れよ。
新しい土地を耕せ。
主を求める時が来た。
ついに主が訪れて
恵の雨を注いでくださるように。」
ーー ホセア書10:12