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アブラハムが生まれる前から、わたしはある ①


―― あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする ――

かつてイエスという名をしたひとりのユダヤ人が、同じユダヤ人たちへ向けて語った、有名な言葉である。

で、今回はその言葉のとおりに、あるひとつの「真理」が私というひとりの人間を自由にした――という話から始めて、しまいには、この文章の目的たる「キリストの再臨」にまでたどり着いてみようと思い、筆を執った。

「真理はあなたたちを自由にする」

――この言葉は真実である。

それと同様に、この文章のタイトルでもある、

―― アブラハムが生まれる前から、わたしはある ――

この言葉もまた、真実である。

なぜなら、これがかつて、そして今なお私を自由にしてくれている、真理のひと言にほかならないからである。


どういう意味だろうか?

すなわち、私はいったい「何から」、自由になったというのだろうか?

「自由になった」という以上は、そうなるまで「何かに囚われていた」、ということである。

私というちっぽけな人間を、囚われの身分としていたものとは、何であったのだろうか――?


それは、以下のような、マチガイの循環のことだった。

マチガイの循環。

すなわち――

アブラハムの子孫とは、ユダヤ民族のことである  →  否、アブラハムの子孫とは、クリスチャンのことである  →  クリスチャンとは、聖書を読んで、教会へ行って、礼拝して、讃美歌を歌って、奉仕活動にいそしんで…というコミットメントをなす者のことである  →  コミットメントとは、また、天職のことでもある  →  天職とは、すなわちクリスチャンがひたむきに労働し、労働の結果をもって神の栄光を表すことである  →  つまるところ、神の御心とは、毎日マジメに労働し、毎週マジメに教会へ集う人間の聖なる生活のことなのである  →  そんな聖なる生活を支える力と、指針となってくれる光こそが、聖書の言葉たちである  → それゆえに、聖書はいつもいつでも、マジメに読んでいなければならない  →  聖書をマジメに読むためには、原語をタダシク読み込み、原語をもってタダシク理解しなければならない  →  原語を大切にするとは、ヘブライ語を大切することである  →  ヘブライ語で聖書を読んでいくならば、ユダヤ民族こそ神の選民であることを知る――すなわち、アブラハムの子孫とは、ユダヤ民族である。…

――私が「自由になった」のは、おおよそこのような、トンチンカンの無限ループからであった。

それゆえに、

ここではっきりと断っておくが、これは「わたし」という一人のバカの身の上に起こった、局部的な出来事ではけっしてない。またかつて、「わたし」という愚かな脳細胞の中でのみくり返された、カンチガイの空転というわけでもない。

この一点については、なんどでもなんどでも、はっきりとはっきりとはっきりと断っておくが、

ひじょうに荒っぽく書いてはいるものの、上で述べたような「蛇のしっぽ咬み」こそが、イエス・キリスト生誕以降(A.D.)の、おおよそ「キリスト教的なる世界」の歴史の大概なのである。

もとい、アブラハムやモーセの時代(B.C.)からの、さらに言ってしまえば、原初にアダムが罪を犯して以降の、人類史においてあまねく認められる、「悪しき傾向」なのである。

嘘だと思うのならば、これから分かるように書いていくつもりだが、この文章のタイトル「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」というひと言をめぐって、なにゆえにイエスとユダヤ人たちが鋭く対立したのか、いまいちど、大好きな聖書を読み返してみたらいい。

それでも嘘だと思うのならば、なにゆえに「歴史は繰り返される」という格言がこの世に存在するのか、いまいちど、自分の頭を使って考えてみたらいい。


私はここで、イエス・キリストにつながった者として嘘は言わない。

だから、あえて愚かになって、私というひとりの青年のツマラナイ誇りのためにも言っておこう。――私は最初から、このムチモーマイのウロボロスに気がついていた。

16、7歳の頃に、生まれてはじめて自分の指先によって聖書の表紙を開き、そこに書かれた言葉と、描かれた世界とに心惹かれ、誰にうながされたからでもなく、ただ自らの意思によって教会の門をくぐったその瞬間から、「これはオカシイ」という違和感をば抱いていた。

右も左も分からない子どもの身分に過ぎなかったとはいえ、私がその後わずか数ヵ月で教会へ通わなくなってしまったのは、当時、私の周りをうろついていたクリスチャンなる存在たちが、おしなべて口先ばかりの、見せかけばかりの、ポーズばかりの偽善者たちだったせいではけっしてない。

20歳の頃にも、私は自らの考えによって、もう一度教会の門をくぐったことがあった。そうしてその時、「切り傷にすぎない肉の割礼」とまったく変わるところのない「水槽に沈められるだけの洗礼(バプテスマ)」をば授けていただいた――そのわずかひと月かふた月後に、私はピタリと教会へ行かなくなった。

その時も「違和感」こそが最たる理由であって、有名無名を問わず、当時、まるでむさぼるように傾聴し、熱情をほとばしらせるようにしながら読み込んでいた、牧師や神父といった人間たちの唇や指先から滔々と垂れ流される「お説教」が、その実、あまりに恥もはばかりも知らない低能な、低俗な、ちゃんちゃらおかしい「たわ言」ばかりだったからではない。

教会に行かなくなった私は、それからとある企業に就職し、いわゆる社畜と揶揄される現代の奴隷の身分となりさがってからというもの、毎日毎日、上から押しつけられる仕事をば「さながら天職のように考えて」、真面目に、真剣に、ひたむきにこなしていた。深夜残業も、休日返上も、事務所に寝泊まりすることもしごく当然の日常だった、そのような十年以上にも及んだ長日月の苦役からも、私は「自由になった」。(これは別に宝くじが当たったからでもなく、仮想通貨が値上がりして億り人になったからでもなく…、特にこれといったドラマもないのだが、「ごくごく自然に」、もしくは「それなりの痛みを伴って」、あるいは「神の御心のままに」、そうなったにすぎない。)

で、そんなふうに「天職」からも自由になったのとちょうど時を同じくして、「ヘブライ語」や「ユダヤ文化」やについて学ぶ機会が訪れた。そしてまた、それらにしても――いっときは自然発生的断食(要するに、食べることすら忘れるくらい集中したのである)をしてまでして吸収したすべての事柄も――わずか数ヵ月あまりで放り投げ、かなぐり捨てて、今では、使徒パウロの言葉を借りるならば、おしなべて「ちり芥」のように考え、「糞土」のようにしか思っていない。

これもまた、16、7歳の頃から抱きつづけて来た「違和感」が、「ユダヤ的」なるものを通して、よりいっそう、くっきりとした輪郭を持って見つめることができたからに他ならない。

要するに、

教会や天職やユダヤやなんかが、「イエス・キリスト」や「憐れみ深い父なる神」や「信仰という聖霊」を映し出す鏡なんかではありえない、むしろまったく反対の効果をしかもたらしていない、という決定的な事実を確認した――それが私の抱きつづけて来た「違和感」の正体だった――ということである。

少なくとも、これが「こんな平凡極まりない人生」をば歩まされて来た、「わたし」という一匹の人間がまみえた、嘘偽りのない風景である。

しかし、たったこれだけのことをもってしても、ここで私がただ単に「聖書にそう書いてあるから、そう信じています」というような、いわゆる「似非クリスチャンの妄念」をもって、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」が真理であると言わんとしているのではないことが分かるだろう。

たとえちっぽけな自分の人生における出来事にすぎずとも、私の中にはたしかな経験があり、今なお、日々確認し続けているからこそ発言しているのであり、たったそれだけのことをもってしても、私は右も左も分からない子どもの頃から「教会ごっこ」をして来たわけでもなく、今なお、「アーメンごっこ」や「聖書ごっこ」にいそしんでいるわけでもないのである。

――これが、私という青年のツマラナイ誇りである。


しかししかし、

たとえツマラナイものであっても、けっして誰からも奪われたり、無にされたりすることのない誇りなのである。

もしも、私のこのツマラナイ誇りが「自分の中だけで完結する問題」であるのならば、なにも note という公器を使ってまでして、こんな文章を書こうとは思わない。

「自己完結すべき誇り」――つまり、「どうだい、俺もなかなかのもんでしょ?」と言いたいだけのジコマンな世間話にすぎないならば、なにも私は私の貴重な時間を使ってまでして、これまで書いて来たようないかなる文章をも書くことはなかった。

多少大げさな表現に聞こえるかもしれないが、私はこれまでもずっと、「命を削るようにして」文章を書いて来た。いや、書かされて来た。

私は、全身全霊をもって書きたいと思うから、書いているのではない。「誰が自費で戦争に行くのか」という言葉のとおりで、さながら戦地へ引きずられていく兵士のような思いをもって、日々書いているのである。

それゆえに、私が意識している読者とは、いつもいつでも「人よりも神」であって、神以外のナニモノでもありはしない。

この文章をもってしても、せいいっぱい批判しようと思っている「愚なる、あまりに愚なるキリスト教的世界」なんか、はっきり言ってどうだっていい。

私が全身全霊で対決したいのは、「神」ただひとりだから。

「愚なる、あまりに愚なるキリスト教的世界」を批判しながら、私は彼らがどのような反応を示すかなど、蜂の頭ほどの興味もない。

それよりも、そんな「愚なる、あまりに愚なるキリスト教的世界」が、当然のように「イエス・キリストの名」を語っている事実を、「なんでアンタは許しているの?」という問いかけをば神に向かってしたいからこそ、書いているのである。

なぜなら、私がここで「愚なる、あまりに愚なるキリスト教的世界」を、どのような言葉をもって批判しようとも、私を黙らせることができるのは「わたしの神」だけだから。

それもなぜかといえば、私をこういうふうに語らせている張本人こそが、「わたしの神」すなわちイエス・キリストと、イエスを死者の中から復活させた父なる神と、キリストの名によって父なる神から遣わされた聖霊だからである。


それゆえに、こちらとしても、はっきり言っていい迷惑なのだ。

聖書だの、教会だの、アーメンだのと、まるで関わるべき必要も必然性もなく立派に生きていた一匹の子どもをば、さながら人さらいのように、そんな「愚なる、あまりに愚なるキリスト教的世界」へといざなって、当たり前のように自滅の回転木馬なんかに乗せておきながら、あげくのはてにそんなマトハズレっぷりを批判せよだなんて――。

イエス・キリストにつながった者として、(かつて存在したあらゆる預言者や使徒たちを除けば)私は誰よりも口が悪いので、はっきりと言っておく――

バカはバカで楽しくやってんだろ、勝手に自滅させたらいいじゃねぇか…。

バカの回転木馬に乗って嬉々としているような、自称神の子たちなんぞにかかずりあわなきゃならないほど、こちとらヒマなのーみそしてねぇってよ…。


―― はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』 ――

ああ、こんなイエスのひと言が、この文章の目的である「キリストの再臨」をば雄弁に私にむかって語りかけてこなければ、だれも自費で戦争に行こうだなんて思わなかったのに。…




つづく・・・

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