「平常心」は周到な準備から生まれる。
こんなことがありました
受験というととにかく一生懸命覚えることを暗記して、日夜勉強して栄冠を得る、そんなイメージを持たれる方が多いかと思います。
しかしそんな「受験は大変な事」という過剰なイメージがマイナスに働くことはよくあります。
私たちは毎年多くの受験生を見ています。
受験生にはいろいろなタイプの生徒がいますので、受験に対する意識の持ち方もさまざまです。
受験の年度に入るはるか前から「もう間に合わない」と相談をしてくる生徒もいれば、夏を過ぎ秋を過ぎても一向に受験生っぽくならず、こちらが心配になる生徒もいます。
彼は、運動部に所属して活躍していた中3の生徒で、割と誰からも好感を持たれる明るくてしっかりした感じの男子生徒でした。
部活が終わった秋からかなりの勉強をしてぐんぐんと成績を上げていき、きわめて順調に準備が進んでいきました。
年が明けてもそのペースは変わらず、「もっとやれる」という感じで私たちにより多くの課題を求めてきたり、具体的な問題の質問攻めを数多くして来たりしていました。
当然誰もが「このまま順調にいくだろう」「安心して見ていられる」そう思っていたのです。
試験を受けてみたら
ところがそんな彼が、滑り止めの私立高校を受験した日から様子が変わりました。
試験から戻ってきた彼は「前の晩全然眠れず、試験日も急におなかが朝痛くなって大変だった」と言うのです。
体調を崩したのかと思い聞いてみると、本人曰く、そうではなくて「完全に試験が怖くてそうなった」と言います。試験が怖くてそうなったという明確な自覚があったのです。その証拠に試験が終わった途端、けろっと調子が良くなったそうです。
話を聞いた私たちは、とりあえず本人の身体が無事で受験も無事に終わったことに安堵しました。そして滑り止めの高校には合格しました。
しかし問題は、さらにそこから起こりました。
彼は「本番の入試でも同じことが起こるのではないか」と言い始め、しかも筆記と面接で2日間受験があるから、「そんなことになればとても乗り切れない」と言うのです。
今までの順調さが嘘のように見えるほど、日に日に憔悴していくように見えました。そして問題を見てはため息をつき、まともに問題を解けないような状況になっていきました。
見かねた教師たちは、学科の指導は一度ストップして彼と試験について話をすることを始めました。内容は「試験の当日」のことについてです。
最初は「怖いからそんな話しないで」と本気で嫌がっていた彼ですが、「怖いと思っていて考えないとどんどんつらくなるよ」というアドバイスを受け入れ、すこしずつ話をするようになりました。
そして「どういうことを考えたらお腹が痛くなったの?」という質問から始めて、具体的に当日の様子をイメージしてもらい、うまくいった状況を想定することやメンタル面での注意点などについて毎回のように話をしました。しばらくはインプットはお休みのようになりましたが、結果としてはそれが正解だったと思います。
また受験校にあらかじめ行ってみることや、試験当日に乗る電車に休みの日に同じ時間帯に乗って受験日のシミュレーションをしてみることなども勧めたりしました。彼は実際にその通りにしました。
そんなことを繰り返しているうちに、もちろん完全ではないですが、彼の受験に対する恐れが少し消え始めたような気がしました。
分からない不安からくる漠然とした恐怖ではなく、それが想定できる怖さに変ったからだと思います。
結果としては、試験日は「元気すぎるくらいで受験ができた」と言っていました。当然ながら志望校には十分な実力で合格しました。
平常心
「平常心を持つ」ということは簡単にはできません。
平常心というのは、「深い谷に掛けられた一枚の板を、普通に床に置いた板を歩くのと同じように歩くことができること」という風に言われますが、もちろん常人にできることではありません。
なぜなら、人には感情があるからです。
「もし落ちたら」「落ちる危険はゼロではないはず」「風が吹いたら…」そんな感情が必ず湧いてくるでしょう。
試験にしたって同じです。それが重要な試験であればあるほど、それに合格しないことで得られないものの大きさに圧倒されます。
ましてや小学生や中学生が、初めてそういった人生の岐路に立たされるわけですから、怖いという感情や逆に希望に満ちた感情、その他あらゆる感情が渦巻くのが、試験前の心情としては当たり前だと言えます。
「意識しない」なんて無理
だから平常心をもって、さわやかに受験を迎えるということなど
そもそも最初から無理だということを認識するべきです。
よく学校の先生でも塾の先生でも「平常心で行け」などと常套句のように言い放ちますが、それはあくまで理想でありその先生にとっても「結果としてそうなればいいな」というような願望に過ぎません。それだけでは少し無責任だと思います。
逆に平常心で行けなくて「がたがた震えたとき」に備えての危機管理こそが、本当は重要です。
受験の怖さや受験の向こうにある希望を「意識しない」ことなど、初めから到底無理なのですから、「ドキドキするのは当たり前」と思うところから、真のメンタル面での準備が始まるのです。
あがっても点数が取れる準備
このように考えてみると「自分が舞い上がってしまっていてもそれなりに得点できる」そういう準備こそが重要であり、逆にそういう風に想定していると、怖さが減ってむしろ平常心に近づくことが可能となることに気がつきます。
簡単なことではないのですが、私たちはアウトプット面対策であがり対策を行うことがあります。その際には「どんな状況が怖さにつながっているのか」ということを考えることがとても重要です。
そしてそれは、人それぞれ違うようです。
ある受験生は、「試験開始前のシーンとした静けさがどうにも怖い」と言っていましたし、またある人は「皆がカリカリと筆記をしている音が怖い」と言っていたりしました。
また別の人は「時間が足りなくなると急に怖くなる」と言ったり、逆に「何事もなく過ぎた真ん中あたりの時間にドキドキし始める」という人もいます。「トイレが混むのが緊張につながる」という生徒もいます。
それをただ「平常心で」と言ったって、到底解決できる話ではないですね。アウトプット対策は抽象的ではダメなのです。
インプットなら、「ここの式を書くときに、こういう引っ掛けがあるから特に注意。問題文のここでわかるよ」などと事細かにアドバイスするのに、アウトプットになると途端に「問題をよく読め」「平常心で」と言うのは、アドバイスとも言えないと思います。
怖さの秘密
「怖い」という感情は、必ず「まだわからない」ことについて生じます。
すでにわかっている事を人は決して怖いとは思えないのです。
だから少しでも事前に状況を「わかって」いれば、怖さが減ります。
実に論理的な話です。がたがた震えてドキドキが止まらない事をあらかじめ想定して、「そんな場合にどういう対処をするか」あるいは「あがっても点数が取れる準備」を考えて普段から対策を考えておくという事が、何よりも現場では役立ちます。
これこそが、受験直前に一番やらなくてはならないメンタル面の準備なのです。よく「正」や「人」の文字を掌に指で書くなんていうおまじないをやったりしますが、それだって立派なアウトプット対策です。
少なくとも「平常心で行け」「当日は力を出し切れ」というアドバイスよりは効くでしょう。
当日が半分
具体的には、会場を想定してイメージトレーニングすることが基本かと思います。大学受験であれば高校生は模試を普通受験しているので、雰囲気が想定できるかと思います。
会場をイメージして、「会場で受験しているけれども、自宅の机の前で解いているかのような気分で解いている自分」の姿を思い描いたりすると効果的です。
高校受験の場合は、多くは志望校で受験をすることになるので、学校見学に行った際に、イメージをつかんでおくのがいいかと思います。
「あがる」という状態は実に様々な形で起こります。何かを人前で話したりする場合には、万全の用意をしていると思っていても、人の目が気になって急に上がってしまうようなこともありますが、試験の場合にはそういう対人要素が少ない分、手の打ちようはいろいろあります。
そしてこれはいつも言っていることですが、「試験の準備のインプットが完璧でも、あと半分、まだ当日のアウトプットがある」という事は頭に入れておく必要があります。
もちろん客観的にはインプット通り解答できていく場合が多いと思いますが、「当日が半分」というくらいの意識を持ったほうが、結果としては断然うまくいくのではないかと思います。
これは逆に言うと、それくらい実際には指導者でアウトプットを重視している人が少ないということです。抽象的な精神論が一番中途半端で当日対策には無力なことがあります。
「頑張れ」という励ましで燃え上がることのできる生徒さえも、「時間が足りない」「隣の生徒がうるさい」「窓の外でサイレンが鳴っている」なんていう突発事態の前にはパニックを起こすのが受験というものですから、当日のメンタル面の準備の重要性は大きいものなのです。
受験生が受験場に行って「ああこんなはずでは」となる場合の多くがアウトプットによる失敗ですが、当日になってそれに気づいても遅いのです。意外にも先生も生徒本人も、アウトプットの罠について軽く見すぎていることがあります。
これを読まれた受験生の方は今からでもいいので、当日の手順をもう一度、自分の性格や気分というものを前提に練り直してみると良いのではないかと思います。
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