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美しい絶望を描くためには、大切な日常を描かなければいけない/『イリヤの空、UFOの夏』から僕が学んだこと

今日は全国的にUFOの夏だ。

もう20年も前の作品にもかかわらず、いまだ6月24日を迎えると必ずイリヤの空の話題を見かける。

自分自身が最初に読んでからもすでに15年以上が経っているけれど、「プールという単語をみたとき」「バイクを弾いている女の子を見た時」「いい映画のエンディングをみたとき」折に触れて思い出す作品だ(きっと、そういう作品を名作というのだと思う)。

僕が『イリヤの空、UFOの夏』から学んだことは片手の指以上ある。

その中で、いまだに自分の文章、価値観に大きく影響を与えていることについて、せっかくのUFOの日なので文章にまとめてみようと思う。

※ストーリーには大まかにしかふれませんが、多少のネタバレは含みますので(というか、なにか語ろうとするとどうしてもネタバレせずを得ない)、ネタバレが嫌な方はまず本編を読んでからお読みください🙇‍♂️

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久しぶりに3巻を開くと女子二人がラーメンを食べている衝撃-異常と日常を行き来するストーリー展開-

久しぶりにnoteを書こうと思った理由は、久しぶりに開いた3巻の冒頭にある。

過去にイリヤを読んだ方は、3巻の冒頭がどんなシーンだったか覚えているだろうか?

ちなみに僕は忘れていたので、衝撃を受けた。

全4巻で、最後が結構壮絶なので、3巻ぐらいだともう、主人公とイリヤは逃亡生活を送っているころだっけな?と思って開いたら・・・

なんと、幼馴染の晶穂とヒロインであるイリヤが、中華料理家で大食い勝負をしているのである。

これだけ描くと唐突な感じがするが、ここまでの筋書きはだいたいこんな感じだ。

・文化祭で主人公の浅羽と幼馴染の秋穂は一緒にファイヤーストーム(キャンプファイヤーみたいなもの)で踊る約束をした。
 ↓
・しかし、その時間浅羽はヒロインのイリヤが操縦する戦闘機のエアロバティックスを見ていた(つまり、秋穂との約束をドタキャンした)。
 ↓
・そのことでこれまでの不満が爆発した秋穂は、取材と称してイリヤに大食い勝負を仕掛けた。
 ↓
・イリヤもそれに乗り、壮大な勝負の果て二人にちょっとした友情が芽生えた。

なるほど、ヒロインと幼馴染の女の子が主人公をかけて勝負をする。青春小説において非常にありがちな展開である。

しかし、僕はこのシーンのことを3巻を久しぶりに開くまですっかり忘れていた。

なぜなら、こんな平和な光景が完全に霞んでしまうほど、ここから主人公とヒロインが戦争を中心とするとする凄惨な事態に巻き込まれていくからだ。

僕はこういった感覚を、名作と呼ばれる作品を読んだり、ゲームをプレイするときに時折味わう。

◎ひぐらしのなく頃に
◎シュタインズゲート
◎最終兵器彼女
◎三日間の幸福
◎ヒミズ
◎ジャッジメント7
◎リトルバスターズ…etc

こういった作品は、後半の怒涛の展開や伏線回収が強く印象に残るため前半の日常パートの印象が気付けば薄れている。特にひぐらしのなく頃にについては、「前半の日常パートが冗長だ」という指摘を見る機会も多い。

では、後半の展開が鮮やかであるなら、前半の日常パートは薄味でもいいのか?

それはまったくもって間違いだと僕は考えている。

むしろ、イリヤの空でいうならば4巻中の3巻の前半まで、こういった緊迫感がそこまでない(戦争という設定があるため、常に不穏な影はあるのだけれど)日常のシーンがあるからこそ、後半の怒涛の展開が効いてくる。

日常シーンが平和で愛しいからこそ、後半の絶望や感動、カタルシスを強く感じることができるのだということを、僕は『イリヤの空、UFOの夏』から強く学んだ。

なぜ、イリヤの空を読むとこんなにもダメージをうけるのか?

あまり深いネタバレはしないが、イリヤを最後まで読むと、そこまで熱中して読んでいた人ほどかなりのダメージを受ける。

ちなみに、このダメージは結構深刻で、僕は何回読み直しても4巻を読み終わると1週間ぐらいダメージから抜け出せず、TwitterやGoogleでひたすら同じように傷を負った読者を探し、気を紛らわさずるを得ないほどだ。

しかし、ラストの展開がそこまで衝撃的かというと、そんなことはない。

むしろ、衝撃度合いやカタルシスでいえば、シュタインズゲートやリトルバスターズなどと比べると、そこまででもないと僕は感じている。(そんなことない!という方ごめんなさい🙇‍♂️)

では、なぜここまでダメージを負うのか?

これは僕の感覚だけれど、『大切なものを奪われた感覚がどの作品よりも強いからではないか?』と考えている。

1巻を50ページでも読んでいただければ察しがつく通り、イリヤというのはものすごく感情に乏しい女の子だ。

その理由ももちろん作中で明かされるのだけれど(そして、その理由がより一層先述の感覚を引き立てるのだけれど)、そんなイリヤが浅羽との関わりや学校生活を通して、少しずつ感情というものを手に入れていく。

これが、著者である秋山さんの筆力によって、「なんだか唐突に」という感覚ではなく、「非常に納得できる形で」手に入れていくものだから、読者は3巻で秋穂と大食い競争をし、文字通り食い倒れているシーンを読むあたりから『ああ、イリヤよかったね』と自然と思えてしまうのだ。

そして、そんな風に思っているからこそ、ようやく人並みの感情や誰かを大切にする気持ちを手に入れたイリヤが、それを手に入れてしまったがために最後命を落とすシーンを迎えたとき、強く感情を揺さぶられる。

手に入れるところを見ていたからこそ、失うところを見たときに強烈なダメージを受ける。

逆にいえば、どれだけ壮絶なわかれを描いても、それを手に入れる部分において読者が不在である限り、そんなに心は揺さぶられないものだ。
(最近のマンガアプリで流行りの『デスゲーム系コンテンツ』を読むたびに、僕はこのことを考える。逆に最近終わった『進撃の巨人』はかなり展開が早い中で、104期生の回想を少しずつ交えて、うまくその部分を補っていたお思う)

この陽と陰のコントラストこそが、イリヤの空を名作たらしめていると僕は考えている。

イリヤと浅羽が手に入れて失ったもの、そしてその失ったものの代わりに手に入れたものについて考える時、ある種のどうしようもなさが胸の中に去来して、脳の一部を強制的にその感情に奪われてしまうのだ。

結論:あらゆる名作はコントラストを描いている

この記事の主題である『絶望を際立たせるには、日常を語る必要がある』だけれど、それだけでなくあらゆる物事を印象的に深く描くためには、コントラストをいかに違和感なくつけられるかが鍵だと思う。

怒りを描くためには、その人がいかに優しい人間かを描く必要がある。

周囲にある恐れを丁寧に描くほど、それを乗り越えるための愛が際立つ。

大切なものを描くためには、前後で喪失を描いた方が映える。

絵と同じで、あらゆるものごとはコントラストがあるからこそ、まるでそこに存在するかのようなリアリティを生み出すのだ。

僕は、それをイリヤの空から学んだ。

4巻の一行目が「イリヤが声をあげて笑った」なのは、とても示唆的だし、これが後から読み返したときのための確信犯的な倒置だとしたら、やはり天才敵だと思うととともに「随分ひどいことするな」と思う。(この一言が目に入った瞬間、僕はエピローグを迎えたあとの浅羽と同じ種類の喪失感を感じてしまうのだ)

そして、刊行から20年たった今でもこんな気持ちを呼び起こしてくれるこの作品は、文句なしの名作だし、ライトノベルという枠を超えて後世に語り継がれてほしいと心から思う。

全世界的にUFOの日である今日。

みなさんも、久しぶりに『イリヤの空、UFOの夏』を読み返してみませんか?


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