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夏:H君についての後悔

 私が小学生の頃、よく一緒に遊んでいた男の子がいた。名前をH君といった。細身で、いかなる季節でも不揃いなボサボサ長髪で、前歯が印象的で、年相応の無邪気な考え方を持っている少年だった。当時の私は、そんなH君を「元気だな」という漠然とした見方で済ませていたが、いま思うと、それは間違っていたのだろう。

 H君と私は同じ小学校に通っていた。私達が住んでいたのは地方都市のその外れで、もしさっさと説明を済ませてしまいたいなら『栄えていないとはいえない』という台詞で終わるだろう。名を『山が丘』という。山に丘という不思議な名前だった。大きなデパートはなく、買い物をするなら隣町へと出掛けるのが普通だった。しかし、住宅街やニュータウンはあるので子供の数はそれなりに多く、しかし小学校は一つしかないので、必然的にその地域の子供のすべてが集まるような形になっていた。その中で、私達は知り合ったのだ。運命的な出会いでも、ドラマチックな再会なんかでもなく、気付けば友達になっていたという一般的で面白味もない普通の出会いだった。ドラマをお届けできなくて申し訳ない限りである。

 そんな私達は休日になるたびに、学校が終われば、授業中でも、遊んでいた。友人であり悪友であり、それらを全て包んだ親友であった。お互いがお互いしか『遊ぶ相手がいない』という、悲しい事情があることは否定しない。
 そして、毎日のように遊ぶのは夏休みも同じことだった。
 それは小学五年生の夏休み。
 平凡な夏休みで、平凡にしてしまった夏休み。私の心に残り続けている、夏休みだった。

 私達の暮らす地域は山間部と海に挟まれている様な地理だった。海風に乗った浜の匂いがしたと思えば、山から吹き降りる緑の匂いがしたりしていた。山が丘という名前のくせに、どちらかと言えば海の面積の方が多かったのではないだろうか。それに山の丘とは、今考えてみると、なんとも奇特な名前である。
 町の真ん中には一本の大きな川が走っており、それを『ヤマ川』と呼んでいた。山が丘に走っているからヤマ川だったのだろう。もちろん正式な名称ではないだろうが、私達にとってはヤマ川でしかなかった。
 ヤマ川は私達の住む地域よりさらに上の山間部から、私達の住む山が丘に面する海に流れ込んでいた。川幅は広いとは言えないが、子供たちが遊ぶには十分と言えた。川面はさらさらとした砂で覆われ、両壁は舗装されたコンクリートだった。大昔に川の氾濫があり、そのときの補修の名残だと聞いていた。小さなカニや、小さな魚、小さな貝が沢山いたのを覚えている。私が勤勉な人間なら、皆様に詳しい種名をお教えしたいところだが、ご覧のありさまである。

 H君は、そんなヤマ川の出口、つまり海に面する所に住んでいた。決して綺麗とは言えない県営住宅で、H君はいつも独りだったと思う。というのも、私はH君の家に通っていたのだが、両親の姿を見たことがなかった。部屋の中は散らかりっぱなしだったはずだ。家には何もなく、いつもあるのは不気味さを感じるほどの静寂と、割れた水槽だけだった。

 小学校が前期を終えたころ、つまり小学五年生の夏休み。私はH君の家に遊びに行っていた。朝っぱらから──朝の7時頃だったか──冷たい階段を駆け上がり、ドアをノックした。インターホンは壊れていて、黄ばんだプラスチックが割れていたのを覚えている。私が階段を駆け上がる音が聞こえていたのか、私がノックを三回するより前に、H君はいつもドアを開けた。その日も例に漏れず。いつも通りの半袖短パンのボサボサ頭で彼は出てきた。
 そして言った、彼は言ったのだ。

「ヤマ川を上ってみない?」と。

 ヤマ川を上る。それは当時の私から見れば、とてつもなく魅力的な提案に聞こえただろう。この町に住む誰もが知っている「ヤマ川」を登り切ったとなれば、とても偉大な偉業であるような気がしただろう。それでなくとも、その年頃の冒険心というものは放っておいても爆発するものなのだから、そういった起爆剤を用意されては「いいね」と同意するのは避けようがないだろう。

 私達は毎朝少しずつ川を登っていくことにした。スタート地点はH君の家から最も近い地点とし、ゴールはまだ誰も知らないであろうヤマ川の源流地点だ。同級生の噂で、ヤマ川のずっと上流には滝があるとも聞いていた。それを見て帰ったとなれば、当時の私にとってそれは大したことだった。大まかな目標をその滝──私達は『ヤマ滝』と呼んでいた──に定め、進軍を開始したのだった。
 それは、アブラゼミが鳴き声がふつふつと湧き始め、水に触れる足首が少し冷たい、夏の朝だった。

 その朝は干潮で、私達は海に近い地点からヤマ川上りを始めた。サンダルから入り込む砂が、指の間に挟まり気持ち悪く、ところどころに転がる空き缶などのゴミがチクチクと足裏を刺していた。
 コンクリート壁を覆い隠すように生えた水草に、身を隠す小さな魚達なんかもいたと思う(あの特徴的な顔からしておそらくボラだったのだろう)。海水浴などで見かけるフナムシがいなかったのは、海水と淡水が混じった汽水域だったからだろうか。

 薄暗かった空が太陽に力を借りて夜を追い出す中、じゃりじゃりと砂を掻き分けながら私達は進んだ。私が小さなカニを見つけたので拾い上げると、指を挟まれ、なんとか引きはがそうと悪戦苦闘した結果、カニのハサミごと引きちぎれ、私は涙を浮かべていた。そんな私をH君が笑っていたのを思い出す。くしゃりと紙を丸めたような笑顔だった。その細部までは、今となっては思い出すことが出来ないが、現在の私には、そして当時の私にも真似できなかっただろう。

 程なくしてヤマ川の水から海を完全に抜け切りった頃、私達とヤマ川は、海と町を隔てるように走る国道の下をくぐり抜け、住宅街へと食い込み初めた。先程までは多少なりとも自然の面影が残っていたが、ここまで来るとその影は消え、人工的な自然という矛盾した光景が広がっていた。見上げれば寂れた白いガードレール達の頭が見える。いつもは歩道から見下ろすだけのヤマ川の中に入っているというのは、なんだか不思議だった。住宅街なので、もちろん人通りもあり、歩道から幾人の大人が私達を見下ろしていたが、誰も私達を中止することはなかった。ただ奇怪な目を向けて、数瞬のうちに興味を失っていくだけだった。

 川幅が狭くなったからか、川の流れは少し速くなっていた。それでも危ないと本能が察知する程ではなく、かえって気持ちのいいくらいだった。ヤマ川へ降りるための階段の付近は、比較的流れが穏やかになっているためか、黒いカタツムリの貝殻サイズの貝が多く身を潜めていた。H君がタニシと呼んでいたソレを、私達は互いに投げ合い遊んだ。
 そんな川に、当時弱冠10歳の私の気を引くものは数多に溢れていたが、その中で一番を決めるとするなら、選択肢は一つしかなかった。鴨の卵だ。
 ヤマ川には鴨が住んでいた。基本色が茶色の羽で体を覆い、アクセントに緑の羽根を装飾し、くちばしは黄色の鴨たちだ。数羽が集まって過ごしていて、当時の私達には──そして現在の私にも──鴨のオスメスを見分けることは出来なかったが、鴨たちは卵生で何処かで卵を育てていることは知っていた。
 そして、幸運にも、鴨達にとっては不幸にも、私達はいとも簡単に鴨の卵を見つけることが出来た。発見場所はヤマ川を横断する小さな歩道橋の下だった。周りに親鴨達も見当たらなかった。私とH君はいたく興奮し、同質量の金塊でも見つけたかのようにはしゃいだ。
「持って帰りたい」
 H君は言った。
「持って帰って育てたい」と。
 そのことに私はなにか否定的なことは言わなかった。私も持って帰りたいという気持ちはあったが、断念した。私の家庭環境では、例え羽化したとしても、育てるのは用意ではなかっただろう。捨てられるという結末のオッズは0だ。当時の私もそれはよく理解していたのだ。だからこそ、心良く親友へと卵を譲った。H君なら羽化したとして、しっかりと育ててくれるんじゃないかとも思ったから。
 そう、羽化したらの話である。有精卵と無精卵という2つの単語を、当時の私が知っていたかは定かではないが、自然に興味津々だった私はどこかのテレビが雑誌かで卵には2種類あることを知っていた。有精卵と無精卵。生まれるか生まれないか。自信達が手にしている卵が、そのどちらなのか知る術を知らなかった私達は、深いことを考えることをやめて、卵を持ち帰ることにした。しかし、いまは世紀のヤマ川上りの途中であった。なので、卵は他の人達や親鴨に見つからない所に隠しておくことにした。ヤマ川上りに連れて行って、途中で割れてしまったりなんかしては堪らないという判断だったのだろう。
 あの卵から小さなヒナが孵ってくる様子を、この夏休みが終わるまでに見ることが出来るのだろうかと、私は楽しみにしていた。

 卵を少し離れた岩陰に隠し、私達は再び歩み始めた。
 そこからしばらくは、大きなことは起きず、次第に私達の間にも会話が減っていった。セミの鳴き声だけがいやに大きくなり、太陽に照らされた水の照り返しで蒸され暑かった。正直な告白すると、その頃から怠惰で飽き性な私は、その時点で半ば飽きていた。帰りたいなと思っていた。しかし、H君は違うようだった。歩みを緩めることはなく、次第に私とH君の間には距離が開いていった。
 傾斜があるのか分からなかった川底に、しっかりとした傾斜が付き始めた頃には、川底からさらさらとした砂はなくなり、コンクリートが姿を現していた。苔などが張っていたのか、足元はぬめり不安定だった。開放的だった周囲はコンクリート壁や家屋に囲まれるようになり、そのせいか昼間が近づいていることを実感できないのが印象的だった。薄っすらとしたものではない、はっきりとした恐怖が足元から這い上がってくるようで、私の足取りを重くした。沸騰するかのように沸き立っていた蝉の鳴き声はなりを潜め、辺りに響くのは水の音だけになっていた。私達が普段暮らしている世界とは隔絶された別世界に来たようだったのを覚えている。私の心にあった冒険心は不安に押し流され、私の息を詰まらせた。
 そして、ついに私は切り出したのだ。
「もう帰ろう」と。
 そんな主旨のことを言ったことは覚えている。
「嫌だ」
 H君はいった。
「嫌だ」と。はっきりと言った。そして「もっと進みたい」と続けたのだ。
 そのときの私は断ることが出来なかった。無理に引き返すことも出来たのだが、それをしなかった。H君を一人にしてはおけないという考えもあったのだろう。私はH君の背中を追い掛けるようにして、ヤマ川を再び上り始めたが、しかし、すぐにそれは頓挫した。

 大きな壁に行き当たったのだ。
 そこは山を切り開いたような場所で、私達の頭上には樹々が生い茂っいた。午前も終わりに差し掛かり強まっているはずの日差しは、その半分も届いていなかっただろう。治水の関係からなのか、崩れかけの山肌から水路を守るためだったのか、下も左右もがっしりとコンクリートなんかで補強され、それは私達の進行方向にも同じだった。のっぺりとした壁が私達の行く手を遮ったのだ。高さは当時の私の背丈三倍程だっただろうか。ツルツルとした壁を勢いよく水が伝い、到底よじ登る何てことは出来そうにもなかった。壁の下部、つまり水が流れ落ちる所には窪みが出来ており、その中をいくらかの小魚が泳いでいたことを覚えている。人工物が自然に食い込んだ不思議な光景だった。
 怖いな。
 それが私が最初に考えたことだった。この壁を登る途中で滑り落ち怪我をする想像をしてしまい、怯んだ。これ以上先に進むのが、どうにも怖くて仕方がなかったのだ。
そして次に考えたのは
「これで引き返せる」だった。
 私は安心した。流石のH君も諦めてくれるだろうと。目の前の壁をどうにかして登ろうなんて、H君でも考えないだろうと。

「嫌だ」

 やはり、H君はそう言った。

「帰りたくない」とも言った。

 私は呆れに近い感情を持ったのを覚えている。足も疲れていたし、なによりヤマ川が醸し出す不気味な雰囲気から逃げたくて仕方がなかった。私はH君に帰ろうと言った。ここから先は危ないよ、と諭した。しかし、H君は頑なに帰ろうとしなかった。「ヤマ滝を見に行く」と言い張り乗り越えることが出来ないであろう壁を見上げたまま動かなかったのだ。
 私は腹を立てた。いや、腹を立てたなんて理的なものではなかったのだろう。もっと子供らしい”拗ねる”という表現がピッタリの感情表現だったに違いない。「帰ろう」と、私が何回も誘てもH君は帰ろうとしなかった。取りつかれたように、その壁を登ろうとしているのだった。
 本格的に愛想を尽かせた私は、H君を残してヤマ川を降りることにした。

「行かないでよ」

 H君は降りていく私に言った。しかし、私はその言葉を真に受けることなく「ねえ」と返事を求める声を無視してヤマ川を下って行った。

 登るときよりも、下るときの方が苔に足を取られ何度も転げそうになり怖かったのを覚えている。だが、登るときよりも少ない時間で私はヤマ川を降りきることができた。
 その最中、鴨の卵を見に行った。私達が隠していた場所から、卵は動いておらず「H君が持って帰るだろう」と思い、卵はそのままにしておいた。H君と喧嘩別れの様になってしまったのが、当時の私に引っかかっていたが、また明日になれば何もなかったように遊べるだろうと思っていた。
『僕達は親友だから』
『明日も遊ぶ』
 と、思っていた。

 次の日、私はいつも通りH君の家に行った。しかし、ドアをノックしても何時間待っても、H君がドアを開けることはなかった。「きっと出掛けてるんだろう」と思い、その日は引き返した。

 次の日、H君は家にいなかった。

 次の日、H君は家にいなかった。

 次の日、H君は家にいなかった。

 次の日、H君は家にいなかった。

 夏休み明けの学校に、H君はいなかった。

 私は引っ越したのだと思い、担任の先生にその旨を聞いてみたが「引っ越してはない」という答えが返ってくるだけで、それ以上の情報を得ることは出来なかった。学校帰りや休みの日にH君の家に行ったりしてみたが、H君はいなかった。
 私は両親にそのことを相談した。「H君が学校に来ない」と。
 漫画やアニメの展開なら、両親が力を貸してくれる所かもしれないが、私の暮らしていた世界はそういった物と比べると、はるかにつまらない物だった。両親は私に「H君と関わるのをやめなさい」と言ったのだ。「もう遊びにいくな」と言いつけたのだ。
 両親に反抗する勇気も力もなかった当時の私は、なくなく従うしかなかった。いま思い出しても、あのときの両親の判断は我が子を守るという点では、おそらく正解に近かったのだろう。しかし、その他のあらゆる点で不正解だったのだろう。両親のその選択を、私はいまでも恨めしく思う。

 あの夏休みの、あの日以来、私がH君と出会うことはなかった。

 H君が学校に来なくなってから、私は学校での遊び相手を失った。集団生活での孤立は”イジメ”の次にツライことであり、私は逃げ場を求めるように図書室に入り浸った。そのときに読んでいた本の名前はいまでも憶えている。確かデモナータといったか。

 地元の中学校に進んだ私はサッカー部に入った。私に友達がいないことを危惧した両親が半ば無理やり入れたようなものだったが、確かに友達は出来た。それにサッカーは現在でも続いている生涯のスポーツになった。
 しかし、そこにH君はいなかった。小学校からの繰り上がりみたいなものなので、生徒の顔ぶれが変わらない中で、H君は中学校に来ていないみたいだった。誰もそのことについて話さなかったし、気にもしていなかった。そもそも、H君の存在をしっていたのか、怪しいくらいだった。
 高校に入っても、私はサッカー部に所属した。勉強を放り出し、サッカーに明け暮れる日々はそれなりに充実していたし、楽しかった。
 『だから』という言葉を使うのも自分に腹が立つが
 だから、私の中でH君の存在は薄れていった。 

 私は大学に進み、就職をし、いまはこうしてキーボードを叩いている。

 私はときたま思うのだ「H君はどうしてるのだろうか」と。

 H君はあの壁を超えることが出来たのか。ヤマ滝を見に行くことが出来たのか。あの鴨の卵をH君は持って帰ったのか。有精卵だったのか無精卵だったのか。H君はいまどこで何してるのか。
 私があのとき引き返さなければ、H君との関係は何か変わっていたんじゃないかと。私の両親の判断が違えば、何か変わったのではないかと。

 H君の家にいつも両親がいなかったのも
 H君がいつもボサボサの長髪だったことも
 たまに体に付いていた青あざも
 あの日、H君が帰りたがらなかったことも
 そのあと、H君が学校に来なくなったことも
 全てが繋がるようで、恐ろしい。子供のころには気付けなかった暗闇も、いまは気付けてしまう。
 子供が──しかも小学生が髪を切るには、大人の協力が不可欠じゃないか。自分で切っていたから、あんなにボサボサの不揃いな頭だったのではないか……と。
 しかし、気付けた所で、何もかも遅い。

 私はあの夏にH君を置き去りにしたままだ。
 私はあの夏を心の中に残したままだ。

 今日は6/2。梅雨に入り、せっかちな台風が私の住む地域を目指して進んできている。昼間は夏と勘違いするくらいには蒸し暑い。

 もうすぐ夏が始まる。
 あの夏を置き去りにしたまま、夏がまた始まる。

 一度だけ、H君らしき人物を見かけたことがある。
 去年のお盆、実家に帰省したとき、私は地元(つまり山が丘)のコンビニエンスストアにアイスを買いにいった。そのとき、私が対応をしてもらったレジの反対側で応対をしていた店員が、やけに見覚えのある顔だった。短髪金髪で、特徴的な前歯にひょろりとした体。思わずH君かと思ったが、私の中の朧げな記憶の彼と照合することは出来ず、真相は不明のままだ。

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