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【 ストレイシープ 8 】


 佳江よしえとの話し合いは無事終わったものの、そのまま帰りたくない横澤よこざわ直人なおとを呑みに誘う。こころよく誘いを受けた直人を連れ、横澤は馴染なじみの小料理店にいった。

 そこで横澤は、妻の過去を直人に話していた。

「あいつは施設を出た後も、仕事の休みには施設に来ていました。入所している子どもたちの面倒をみてくれていたんです。私があいつと出会ったのもそんな時でした。『ここの子たちは、みんな私と同じ。私が何人もここにはいる』と、美智子はよく話していました」

「愛情を与えるとは、火を移すようなものなのです。たとえば横澤さん、あなたのロウソクから私のロウソクに火を移してもらったとしても、あなたのロウソクの火はそのままです。消えることも、小さくなることもありません。愛情も同じなのです、どれだけ与えても減るとか無くなるということはありません。きっと奥さんは、このことを知っている人なのでしょう」

「そうかも知れません」

 横澤は手酌てじゃくいだ冷めた酒を飲み干すと、「女将おかみ、二本頼む」と熱燗あつかんを追加注文した。

「とても素敵な方ですね、奥さんは」

 お猪口ちょこに残った酒を飲みながら、直人は言った。

 和服に白い割烹着姿かっぽうぎすがたの女将が、持ってきた熱燗を二人に注ぎ、何も言わずに微笑んでテーブルを離れた。

 そんな女将の後ろ姿を目で追いかけながら、横澤は話し出した。

「ありがとうございます。その後私たちは一年間同棲どうせいして結婚しました。子どもができたので入籍にゅうせきしたのです。『私にも、本当の家族ができた』と言って、あいつは、美智子は本当に喜んでいた。そして私たちは家族としてのきずなを深めてきたのです。そんな美智子が、私以外の男の子どもを産んでいたとは、どうしても考えられないのです。信じられないのですよ、先生……」

「信じてあげてください、『きっと何かの間違いでしょう』と、私も思っています。今のお話を聞く限り、『奥さんに限って』という思いです」

「ありがとうございます。先生にそう言ってもらえると、心強いというか……」

「私のようなものの言葉など、何の役にもたちませんよ」

「そんなことはありません。私は先生とこうして話すだけでも、なんというか…… 先生、私は今回いろんなことを考えました。特に血縁けつえんについては、本当に毎日のように」

「子どもさんとの?」

「そうです。『この子どもが自分と血縁がなかったら…… 自分はどうするのか』と、自問自答じもんじとうを繰り返す毎日でした。でも、今わかりました。先生とこうして話していてわかったのです。血縁なんて関係ない、私は妻を、子どもを愛している。血縁があるから愛するのではない。ただ妻が、子どもがいとおしい。この二人を愛し守っていく。これからもずっと一緒に生きていく。なにがあっても、たとえ再検査の結果がどうであろうと。そんな覚悟かくごが今できました」

 直人はだまってうなずいた。

「ステキな方ですね、横澤さんは。それでいいと思います。その覚悟さえできていれば、再検査の結果などどうでもいいことです。私は自分で子どもを育てた経験がありません。なので横澤さんのように、リアルにお話ができないのです。私もそれが一番いいと思っていました。でも、私では言葉に説得力せっとくりょくが生まれません。所詮しょせん空想くうそう産物さんぶつですからね」

「そんなことはありません。私は先生とこうして話ができたから、自分の本当の心に気づけたのです。私一人で考えていたのでは、どうなるものでもなかったと思います」

「そう言っていただけると、私も少しは役に立てたということになりますね」

 直人はれくさそうに、苦笑にがわらいをしながら言った。

「『できたら間違いであって欲しい』という思いは、まだ消えませんが……」

「それはそうでしょう。人の思いはそう簡単かんたんに消えたりしません。でも同じように今、横澤さんが私に話した奥さんと子どもさんへの思いも消えはしないのです」

 横澤は涙を流していた。

 横澤と別れ、直人は一人勾当台公園こうとうだいこうえんを歩いていた。

「彼の心をリセットするには…… 落としどころは、ここしかないか」

 そんなことを考えながら、夜空を見上げた。月齢げつれい十三日目の月が輝き、その月を守るように大きな月暈つきがさが白く光っていた。

 新年の一月は早くも中旬を過ぎ、下旬に入ろうとしていた。冬将軍の力はおとろえを知らず、東北では暖かい地方の仙台でも、雪がる寒い日が続いていた。

 そんな中で、横澤の再検査は土曜、日曜が間に入った翌週の火曜日、四日後と決まった。

 研究室では、追跡調査ついせきちょうさと並行して新規のサンプルも集めていた。そのため、少し混み合っていたのだ。

 そんな研究室に、みょうなサンプル提供の申し出があったのは、横澤の再検査の日程が決まった金曜日の夕方だった。

 その提供者は、提供する日を自分から指定してきた。それもかなり強引ごういんに翌週の火曜日と、その上時間まで指定していた。

「その日は混み合っていまして……」

 電話を受けた研究員がすまなそうに断ろうとしていた時、教授と打ち合わせを済ませた佳江が研究室に戻ってきた。

「どうしたの?」

 後輩の研究員の困り果てた様子を見て、佳江は声をかけた。

「あ、先輩、今サンプルを提供してくださる方からのお電話なんですが……」

 受話器を手で押さえながら、その子は手短てみじかに電話の内容を佳江に話した。

「わかった、大丈夫よ。その日なら私の再検査も入れてあるから、一緒にって予定に入れてもらうわ」

「わかりました。それじゃこの人にオーケー出します」

「は~い、名前はちゃんと聞いてね」

「は~い」

 お互いに間延まのびした返事で、その提供は行われることになった。

「火曜日、午前10時。名前『滝崎直次郎たきざきなおじろう』32歳」

 と書かれた、提供者の精液採取依頼書が、佳江の机に置かれた。

 

 横澤は火曜日、有休を使い大学病院に来ていた。もちろん、目的は再検査である。しかし、ここで思いもしない人物と出会う。

「あれ、先生どうしたのですか?」

「あ、横澤さんこんにちは。こんなところで何しているのですか、今日はお休みですか?」 

 そこにいたのは、直人だった。

「やだな~ 先生忘れたんですか、今日は例の再検査ですよ。この前、連絡した」

「あ、そうでしたね。ついうっかりしてました」

「先生こそ、どうしたのですか?」

「はい。古い知人が入院したので、ちょっとお見舞です」

「そうでしたか。で、その方はだいぶ……」

「いやぁ~ まだよくわからないようです。検査入院なので」

「そうですか、それじゃまだ心配ですね」

「ですね。でも、心配してもどうなるものでもありません。あまり大きなことにならないことを、願うだけです」 

「さすがは先生です。私は毎日針のむしろに寝ている気分ですよ」

「そうでしたね。ところで、もう採取は終わったのですか? その……」

 廊下の少しだけ広くなっていた一角いっかくでの立ち話だったので、直人は「精液」という言葉を出さなかった。

「はい、今しがた」

「どんな感じなのでしょう? ちょっと見せてもらえます」

「いいですよ、これです」

 横澤は上着のポケットから、紙コップより少し小さいくらいのプラスチック容器が入っている紙袋を取り出した。

「ほう、これですか」

 直人はその紙袋から赤いふたのついたプラスチック容器を出して、めずらしそうに見ている。

「なんだか変な感じですね、自分のものなのに」

「そんなこともないでしょう」

 直人は答えながら、窓際に行って容器を光にかざしてみたりしていたが、「あ!」という声と同時に、容器は直人の手を離れ床に向かって落下した。

 横澤が思わず目を背けた次の瞬間、素早く身を縮めた直人の手のひらに落下物が収まった。

「ふぅ、ビックリした」

「驚いたのはこっちですよ。もう返してください」

「あはは、ごめん、ごめん。ちょっと失敗しました」

 そう言って直人は、その容器を丁寧ていねいに紙袋に入れてから横澤に返した。

「これからあの…… えぇっと誰でしたっけ、あの女性に渡すのですね」

高城佳江たかぎよしえです。はい、これから会って昼飯を一緒に食べて、少し話してから帰ります」 

「では、楽しいランチを。私はこれで失礼します」

 そう言うと、直人は出口に向かって歩き出した。

 

「いつ頃、結果はわかるんだ?」

 横澤は佳江に聞いた。病院の食堂でソバを食べながら佳江が答える。

「そうね、明日には連絡できると思うわ」

「ふぅ、今夜も針の筵か……」

「ん、筵がどうかした?」

「いや、何でもないよ。よろしく頼む」 

「は~い」

 佳江はソバに乗っていた鶏肉を頬張ほおばりながら、間延びした返事を返した。

「しかし、よく食べるな~ オレなんか、何食べても味がしないよ」

「だって、体が資本なのよ。ちゃんと食べなきゃ身が持たないわ」

「それはそうだけどさ……」 

「そういえば和哉くん、ちょっとせた?」

「痩せたよ! 誰のせいだよ、本当にもう」

「ごめん、ごめん私のせいね、反省してます。今度はちゃんと私が調べて連絡します」

「本当に頼むよ、佳江」

「ラジャ! この佳江さんに任せて」

 ポンと胸を叩くと、佳江はニッコリ微笑んだ。

楽天家らくてんかっていうか、なんて言うか、お前のその性格がうらやましいよ」

「エヘヘ、いいでしょ。でも、たまには落ち込むのよ、こんな私だって」

「とってもそんな風には見えないけどね」

「半分は虚勢きょせいかなぁ~ 大変なんだよ、大学院も」

「そんなもんかい?」

「そんなもんよ」

 横澤は出されたソバを半分残して、佳江と一緒に食堂を出た。

「これからどうするの?」

「まだ考えてない。映画でも見て、適当てきとう時間潰じかんつぶして帰るよ」

「奥さんには何て言ってきたの、今日のこと」

「忙しくて健康診断を受けてなかったから、今日病院で受けてくる。って言ってきた」

「あら、うまい口実こうじつを作ったわね」

「オレ嘘が苦手だからさ、ばれないかとハラハラだったよ」

「でも、それももうすぐ終わるわ。明日には結果を出すからね。その悶々もんもんとした気持ちともオサラバよ!」 

「本当お前のその性格、少し分けて欲しいよ」

「私も分けてあげたいわ」

 そんな二人の会話は、病院の出口まで続いた。

「それじゃ、明日」

「あぁ……」 

 そう言って横澤は病院を出た。

 佳江は帰る横澤のうしろ姿を見送ってから研究室に戻った。

「あ、先輩! 滝崎さん、見かけませんでしたか?」

「誰、それ?」

「ほら、先週に電話してきた提供者の方です」

「あ、今日の提供に執着しゅうちゃくしてた人ね。私は会ってないけど、来たの?」

「はい、時間通りにいらっしゃったらしく…… でも、その後行方不明なんです」

「行方不明って、どういうこと?」

「採取する容器を渡して説明したんだそうです。『わかりました』と言って採取室に行ったらしいのですが……」 

「その後、行方をくらました?」

「そうなんです」

「なんだかよくわからない人ね。もうほっときなさい! その人の提供がなくても、研究に影響はないわ。たぶん、ビビッて帰ったんじゃないの」

「でも……」

「あぁ、もういいから、その人のことはなかったことにして自分の仕事しなさい」

「はい」

 後輩の研究員は、今一つ納得できない様子で仕事に戻った。

「迷惑な奴だ。見つけたら、ひっぱたいてやる」

 佳江はそんなことを思いながら、午後の仕事を始めた。

 

   -つづく-

 

Facebook公開日 3/15 2021




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