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【道行き7-2】

【第七章『佳奈』-2】

 隆夫たかおから頼まれた本を探すため、茉由まゆは病院からの帰りに本屋に立ち寄る。そこで偶然、美容師の佳奈かなに会った。


 数年前、初めてヘアドネーションのことを知った茉由は、協力するべきか迷っていた。そんな茉由に佳奈はこう言ったのだ。

「迷うわよね。でもね、ちょっとだけイメージしてみて。あなたが勇気を振り絞って寄付してくれるこの髪は、きっとそれを待ちわびている少女の一生分の笑顔になるのよ。でも、カットしただけだったらどうなる? それはただの燃えるゴミよ」

「どうして、そういうことを私に話すの?」

「決まってるわ、あなたはわかってくれる人だからよ。そうじゃない人には話さないわ」

「でも……」

「さあ、決めよう! あなたは『燃えるゴミ』なんかけっして選ばない、選ぶのは『少女の笑顔』でしょ!」

 にっこり笑って佳奈が茉由を見る。そうしてこの日、茉由はショートボブになったのだ。


 佳奈は茉由の髪を手に取って言う。

「ところで、ずいぶん伸びたわね。そろそろいいんじゃない?」

「ですよね、私もそろそろ佳奈さんのとこ行こうと思っていたんです」

「おいで、明日なら予約ないからさ」

「どうしようかな……」

「なに、予定あるの? 旦那持ちだから、彼氏とデートはなしでしょ」

「え! あぁ…… 実は、別れちゃって……」

「なにそれ! 聞いてないよ」

「ちょっとね、いろいろあって…… そういうことになって……」

「やっぱり明日おいで、ちゃんと聞いてあげるから」

「うん、でも……」

「わかった! 予約にしておくからね」

「わかりました……」

「あぁ、茉由らしくないぞ! しっかりして」

「ですね、はい!」

「それでいい、じゃ明日ね」

「はい、よろしくです」

ということになり、翌日の午前中、茉由は佳奈の店に行った。

「で、今日はどうする。いつも通りショートボブでいい?」

「そこなんですけど…… 思い切ってベリーショートにしたら似合いませんか?」

「そんなことないと思うよ。でも、見た目の印象はずいぶん変わるよ、いいの?」

「えぇ、大丈夫です」

「よし、それじゃ始めるか! いい、バッサリいくよ。思いっきりボーイッシュに仕上げてあげる」

「ちょっと怖いな、よろしくです」

 ということになり、佳奈はヘアドネーション用の髪から切り始めた。今朝まで大事にブラッシングしていた髪が、小分けに束ねられてバッサリと切られる。何度経験しても慣れることがないこの儀式ぎしきのような断髪だんぱつに、茉由は毎回涙ぐんでいた。

 朝早い時間のため客は茉由一人だ。だからだろう、いつもの口調で佳奈が聞く。

「で、どういうことなのよ、離婚ってこと?」

「うん、まぁ…… そういうことで……」

「詳しく話しなさい」

 まるで命令されたように、茉由はこんな話を佳奈に話した。


 みのると結婚することになって、茉由は勤めていた広告会社を退職した。茉由自身は仕事が好きで続けたかったのだが、稔から強く専業主婦になって欲しいと言われたからだった。しかし、それは稔の考えではなく稔の母親、つまりはしゅうとの考えだったことを結婚後に茉由は知る。

 甘い新婚生活もひと月を過ぎると、茉由は暇を持て余してしまう。結婚から三か月が過ぎたころ、帰りの遅い稔を待ち続ける毎日がどうにも我慢できなくなった茉由は、仕事に戻りたいと稔に言った。それに対して稔の口から出た言葉は、「お母さんが納得しない」だった。

 これには当然の如く茉由は反発した。「稔が親離れしないのか、姑が子離れしないのか。たぶんどっちもだろう」と茉由は思った。これがきっかけとなって、茉由と稔は衝突することが多くなる。

 付き合っていた頃の稔の母は、茉由にとても良くしてくれた。常に理解を示し、女性として尊敬できる人だと茉由は感じていた。しかしこれは、茉由の素直な性格が災いしたということに他ならない。つまり人間の表と裏を見抜く力が、茉由にはまだ十分に備わっていなかったと言わざるを得ないだろう。

 二人が衝突するたびに、稔は母親に連絡していたようですぐに姑から電話があった。夫婦間の些細ささいないさかいに対しても、すぐ姑が口出しするようになったのだ。やがてそれはエスカレートし、今度は新婚夫婦のマンションに姑が押し掛けて来るようになった。犬も食わない夫婦喧嘩に姑が食いついてきたのだから話しにならない。

 そんな結婚生活が一年以上も続き、茉由は耐えられなくなって「三下り半みくだりはん」を稔に突きつけマンションを出て実家に戻った。そこには父、のぼるのことが心配だったということも、理由の一つとしてあった。

 そして茉由が実家に戻って三週間が過ぎたころ、姑から茉由に封書が届いた。薄い封筒の中には、稔のサインが書かれた離婚届だけが入っていた。茉由はその離婚届にサインすると引っ越し業者と一緒にマンションに行き、その場で自分の荷物をすべて持ち帰った。


「なるほどね~ そういうことだったか。ま、いいと思うよ。というよりあの小僧、私はキライだったんだ。なんで茉由が結婚したのか? 今でもわからん」

「私にもよくわかんないのよ、きっと若気の至わかげのいたりってやつだったのかなぁ~」

「若気の至りってさ〜 今でも十分若いわよ。私なんてもう三十路みそじを半分以上過ぎたわ」

「佳奈さんの方が若いわよ、私なんてぜんぜん……」

「本当にあなたって子はダメ男にばっかり惚れて…… 茉由だったら言い寄ってくる男はいっぱいいたでしょうに、よりどりみどりだったでしょう」

「そんなことないわ。よりどりみどりって、それは佳奈さんでしょう」

「私は今、男に興味なんかないわ」

 佳奈は女性の茉由から見ても、とてもステキな女性だった。美人でプロポーションも抜群にいい。職業柄もあるのだろうがファッションセンスも良く、茉由は幾度いくどか自分の服のコーディネートを任せたくらいだった。頭脳明晰ずのうめいせきでその生き方にも自分軸がしっかりあり、「並の男性では刃が立たないだろう」と茉由は思っていた。

「できたわよ、どう? 私は自信あるけどな~」

「ありがとうございます。なんかショートにしたら、頭が軽いっていうか」

「じゃなくて髪型よ。自分で切って言う言葉じゃないけど、こんなにボーイッシュなベリーショートが似合うとは思わなかったわよ」

 人の固定観念こていかんねんというのは恐ろしい。一旦こうと決まってしまうと、それを壊すことは至難の業しなんのわざだ。美容師という職業は客の固定観念を壊すことも仕事の内なのだが、反対に自分の固定観念を客に押し付けてしまうことも少なくない。

 佳奈はヘアドネーションの関係からも、「茉由にはロングヘアが似合う」と思い込んでいたのだ。それが自分の手でボーイッシュなベリーショートに仕上げて初めて「茉由には、ボーイッシュなベリーショートの方が似合う」と気付かされた。

  ーー続くーー



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