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【道行き8−2】

【第八章『八雲』-2】


 東京から帰った八雲やぐもは、茉由まゆと待ち合わせて南川みなみかわダムに行った。そこで八雲は自身の過去を振り返っていた。


 八雲と小百合さゆり、二人は似たような空気をまとっていたのだろう。一緒に暮らすまで多くの時間は必要なかった。やがて二人は入籍にゅうせきし、昭夫あきおを出産して小百合は母に、八雲は父になった。

 家族ができて、孤独から抜け出したように見えた二人だった。事実二人は昭夫を中心に幸福な日々を過ごしていた。しかしその幸福は、わずか三年と数か月で終わることになる。三歳の誕生日を迎えた昭夫は、その数か月後に体調を崩して入院する。急性骨髄性白血病きゅうせいこつずいせいはっけつびょうだった。

 抗がん剤を用いた化学療法かがくりょうほうはなぜか効果がなかった。「この化学療法では治癒ちゆが期待できない」と主治医は言った。治療方針は骨髄移植こつずいいしょくに移り八雲も小百合もドナー検査を受けることになる。

 通常、骨髄ドナーになれる確率は、兄弟で1/4 、親子で1/32 、他人なら1/10,000と言われている。残念なことに八雲も小百合も昭夫の型と合わなかった。骨髄バンクからの提供者の連絡もなかなか来ず、我が子が一気に痩せ衰やせおとろえ、死に向かって行くさまかたわらで見守ることしかできなかった小百合は、少しずつ神経をんでいった。

 時には「なぜ、昭夫とあなたの型が合わない!」と八雲をめ、「なぜ、私ではダメなのか!」と自分を責め、「なぜ、提供者が現れない!」と世の無情むじょうを責め立てた。子どもの頃からイジメや親の無理解に耐えてきた小百合だったが、ここにきて限界がきたのだろう。

 自分の中に溜め込ためこんでしまった我慢がまんいかりは、自然消滅しぜんしょうめつすることはない。溜め込んだものが自分といううつわを超えてしまうと、後は外に流れ出るだけなのだ。事前じぜんにわかっていれば対処たいしょの方法もあるのだが、神経を病んでしまった小百合では、もう手の打ちようがなかった。

 だまって小百合の怒りが収まるまで待つことしかできない八雲をののしり、小百合は家を出て翌朝まで戻らない。ということが起きるようになった。その回数は日増しに増えていく。八雲はなにもできずに、ただ小百合の無事を願い、朝まで一睡もせずに帰りを待つのだった。

「これまでの人生で起きた多くの問題は、自分自身の力で解決してきた」という自負じふが八雲にはあった。しかしその自負がここではあだとなる。八雲に友人は少なく、頼りになる親族もいない。信頼して相談できる相手もなく、孤立無援こりつむえんで立ち向かうには、この問題は大きすぎた。

 やがて八雲は仕事に逃げた。なおる見込みのない昭夫のやまい、徐々にこわれていく小百合、対処ができない弱い自分、そのすべてから逃げ出すように仕事に没頭ぼっとうし、家に帰らない日が増えていく。

 そんな中で、運命の日は意外に早く訪れる。病院から八雲の携帯に連絡が来たのだ。「奥さまには連絡がつかない」と看護師は言った。病院に駆け付けたが間に合わなかった。昭夫はその小さな亡骸なきがらをベッドに横たえていた。八雲はただ、その亡骸を見つめることしかできなかった。小百合が病院に来たのは、その一時間後だった。

「人間の生と死はワンセット、わかっているつもりでも、理解しているつもりでも、そのうしなかなしみを取り除くことなど誰にもできはしない。ただ寄り添よりそい、一緒に泣いてやるということ以外、誰に何ができるというのか?」そんなことを思いながら、八雲は小百合をそっと抱きしめた。

 八雲と小百合は昭夫のために、小さな葬儀そうぎを行った。参列者はわずか数人というとてもさみしいものだった。僅かしかなかった貯金をすべて使い、八雲は昭夫の墓を用意した。そして昭夫の四十九日法要しじゅうくにちほうようをすませたその日、二人はその小さな遺骨いこつを墓に埋葬まいそうした。

 そしてその翌日の夜、小百合は昭夫の後を追いマンションの屋上から飛び降りた。

 わずか二か月の間に最愛の家族をすべて失い、また一人になってしまった八雲の落胆らくたんは、見ていられないほどだった。孤独でも、ずっと一人のままなら人は耐えられる。だが、「家族がいる」という幸せを得て孤独から抜け出した者が、その家族を失うということになると、もはや耐えようがない。

 その時、八雲は神の存在を疑い、やがてそれを否定した。

 それから一か月半が過ぎ、小百合の四十九日法要を済ませた八雲は、家族とともに暮らしたこの街から姿を消した。そして三年の月日が流れ、八雲は再びこの街に帰ってきた。

 八雲はいつも、小百合と昭夫に何もしてあげられなかったことをやんでいた。言い訳ならいくらでもできる。だが、そんなものはなにも役に立たないことは、八雲自身が一番わかっていた。

 そんな後悔に押し潰されそうになりながら、八雲は報道カメラマンの道を選んだ。パレスチナの戦地に自身の死に場所を求め、銃弾が飛び交う戦場の中を走り回り、写真を撮りまくっていたのだ。

「悔やんでも悔やんでも、過去は変わらない」八雲の笑顔の陰で、時折見え隠れする暗い影は、こういう過去が作っていた。


「私がパレスチナで報道カメラマンをしていたとき、そこで戦場カメラマンのいろはを教えてくれたのが師匠ししょうだった。師匠は手取てと足取あしとり私に教えてくれた、死なないための方法をね。その師匠が呼んでいる『お前の力が必要だ、イスラエルに来てくれ』と。だから私は行く」

「でも、帰ってくるんでしょ? ねぇ、必ず帰ってきて! 約束して、お願い」

「・・・・」

 八雲はなにも答えない。ただ、時間だけが二人の中を流れている。

「好きなの、あなたが…… きっともう、愛し始めている」

「言ったはずだよ、『私に関わるな』と」

「だって、だってもう」

「まるで駄々っ子だだっこじゃないか、困ったお嬢さんだ。どうしてこんな中年男のダメ男にそんなことを言う」

「だって、だって……」

 そういいながら、茉由は八雲に身を預みをあずけるようにしがみついた。

「私は人を愛する資格も、愛される資格もない、そういう男だ。戦場でシャッターを切ることしかできない。目の前で死んでいく人間を写真にして金をる。そんな生き方しかできない男だ」

 茉由の肩を静かに押して体を離す。八雲はタバコに火をつけて吸い込むと、静かに紫煙しえんを吐いた。

隆夫たかおは本気だ、本当にキミのことが好きなんだ。女はね、自分を愛してくれる男と幸せになることだ。間違っても、自分が好きになった男と一緒になってはいけない。わかるかい?」

「・・・・・」

「さぁ、もう帰ろう」

「・・・・・」

 返事ができない茉由の肩を抱き寄せるようにして、八雲は車に戻る。助手席に茉由を乗せ、八雲は無言で車を走らせた。


  ーー続くーー



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