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【道行き8−3】

【第八章『八雲』-3】


 南川みなみかわダムで八雲やぐも茉由まゆは話をしていた。自分の気持ちを八雲に伝えた茉由だったが、八雲のイスラエル行きの決心は変わらない。

「さぁ、もう帰ろう」

 助手席に茉由を乗せ、八雲は南川ダムをあとにした。


 自宅まで茉由を送る。駐車場に車を停め八雲が外に出ると、店から女性が現れ、ゆっくり八雲の方に近づいてきた。

「送ってくれたのね、ありがとう」

 そう言って女性は助手席のドアを開けた。茉由がうつむいて座っている。

「さぁ降りるのよ、茉由。家に帰ろう」

佳奈かなさん」

 顔を上げた茉由が女性に呼びかけた。

「あなたは?」

 八雲が女性に聞く。

「この子の保護者です、なにか?」

「いえ、遅くまですいませんでした」

「あなたが八雲さん?」

「はい」

“ パーン! ”

「はい」と八雲が答えた瞬間、そのほほを女性が平手打ひらてうちした。あっけに取られた八雲は呆然ぼうぜんとその場に立ち尽たちつくす。

「ごめんあそばせ」

 そう言い残して女性は茉由の肩を抱き、店に入って行った。

「・・・・・」

「なにが起きたのか?」理解が追いつかない八雲はそのまま立ち尽くしていたが、やがて頭を振って車を発進させた。

「すっかり見透みすかされていたということか、あんな女性もいるんだな……」車を走らせながら、八雲はそんなことを考えていた。頬がやたらといたんだ。


 それから一週間が過ぎた。隆夫たかおは無事退院して、リハビリのために通院する毎日を過ごしている。そんな隆夫のところに八雲が訪ねてきた。

「こんにちは。どう、調子は?」

昌夫まさおさん、久しぶりですね。もう自分では大丈夫と思っているんですが、リハビリの担当がうるさくて……」

「あはは、そうなんだ。リハビリはしっかりやることだよ」

「そうでしょうけど、面倒くさくて」

 そう言うと、隆夫は苦笑にがわらいした。

「ところで、今日は?」

「車を返しにきたんだ」

「そうですか、じゃ本当にイスラエルに?」

「あぁ、明日、日本を立つ」

「そうなんですか、さみしくなります」

「お前はもう大丈夫だよ、一人でちゃんとやっていける。自信を持つんだ、いいね」

「でも…… やっぱり寂しいですよ」

「はじめのうちだけだ、やがて慣れて忘れる。人間というのは、そういう生き物だ」

「そういう言い方はしないでください。寂しいのは本当です」

「そうだね、ちょっと言い方が悪かった。すまない」

 二人はしばし沈黙ちんもくしていた。


「どうでした、この車」

 その沈黙を破るように、隆夫はつとめて明るい口調で聞いた。

「うん、いい車だったよ。隆夫はいい仕事ができるようになったね」

「ありがとうございます。そう昌夫さんに言ってもらえる日がくるなんて、本当にうれしいです」

「私の本当の気持ちだよ。ありがとう、今回はこの車に助けられたよ」

「明日は何時に出るんですか?」

「朝の早い新幹線になるね、成田を出るのは午後の便だ」

「そうですか、茉由は知っているんですか?」

「彼女は私と関係ない。だから教える必要もない」

「それでいいんですか? 本当にそれで……」

「勘違いしてるようだが、私と彼女はなんでもない。これから彼女を幸せにするのは隆夫、お前だよ」

「・・・・・」

「それじゃ、もう行くね。ありがとう隆夫、世話になった」

 そう言って八雲は右手を隆夫の前に出した。

「ありがとうございました。昌夫さんがいたから、私は立ち直ることができました」

 隆夫はそう言うと、八雲の右手を両手でつつむようにつかんだ。

 俯いている隆夫の肩をパンパンと叩き、なにも言わずに八雲は歩き出す。その背中を見送りながら、隆夫は深々と頭を下げた。


 部屋に戻ると、パソコンにメールが届いている。開くとイスラエルにいる「阿部」からだった。この「阿部義文あべよしふみ」が、八雲が茉由に「師匠」と話した人物だ。

「準備はどうだ、順調に進んでいるのか? またお前と仕事ができる日を心待ちにしている」

 簡素かんそな内容だった。

「準備は整いました。予定通り明日の午後、成田からイスラエル航空の直行便に乗ります。テルアビブで合流できますか?」

 八雲も簡素な内容で返信した。そのメールに対し、阿部からの返信は夜になって届いた。

「私はガザを離れられない。仲間がテルアビブにいる、そいつと合流してこっちに来い。お前の写真はその仲間に渡してある、コンタクトはそいつがする」

「了解!」

「相変わらずだな、阿部さんは」メールを読みながら、八雲はそんなことを思った。

 タバコに火をつける。ゆっくり紫煙しえんいて部屋を見渡す。大きな家具などなにもない部屋は、生活感があまり感じられない。テレビと冷蔵庫が唯一、自分を主張している。部屋に残していくものの処分は不動産屋に任せた。着替えと日常生活用品を入れたキャリーバッグとカメラバッグが、八雲の旅に付き合うこととなる。

「世話になったな」

 ワンルームの部屋に向かって、八雲は小さくつぶやいた。


 その夜、隆夫は茉由に電話した。

「茉由か、元気なのか?」

「隆夫……」

 八雲がイスラエルに行くことを聞いてしまい、逃げ出すように隆夫の病室を後にしてから、茉由は隆夫にも会っていない。茉由のことを心配していた隆夫だったが、茉由なりに悩んでいると思い、連絡は取らなかった。

「ごめんね、隆夫。お見舞いにも行かなくなって……」

「そんなことはいい、もう退院した」

「聞いてたわ。遅くなったけど、退院おめでとう」

「あぁ、ありがとう」

「どうしたの? 急に電話なんて」

「うん、おまえの声が聞きたくてさ」

「バカね、そんな女たらしみたいなこと言って」

「会えないか?」

「これから?」

「いや、そうじゃない。会いに行ってもいいか?」

「店に来るの?」

「ダメか?」

「そうじゃないけど…… でも隆夫、身体は大丈夫なの?」

「もう治った、じゃこれから行く! 十分で行く!」

「そんなに急いだらダメ、待ってるから大丈夫よ」

「わかった、ありがとう茉由」

「うん、じゃ後で」

「ふぅ」と息を吐いて、隆夫は車のエンジンをかける。

「隆夫ったら……」そう呟いて、茉由はスマホを抱きしめるように胸に押しあてた。


 夜に冷やされた朝の空気は冷たい。そんな仙台駅のホームで、八雲は新幹線を待っていた。朝の早い新幹線に乗り込む乗客は少なく、わずか数人が八雲と同じように新幹線を待っている。

 新幹線が線路を滑るように静かに入ってくる。「もう二度と、このホームに立つことはないだろう」そんなことを考えながら、八雲は新幹線の扉が開くのを待つ。

 出発のメロディーがホームに流れる。乗客を乗せた新幹線が扉を閉め、静かに動きだした。


  第八章『八雲』 ー完ー




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