【 ストレイシープ (stray sheep) 】
嘘については、いろいろな考え方があるようだ。
「人間が言葉を覚えることは、嘘を覚えることでもある」というようなことを言ったのは誰だったろうか。どうもこの頃物覚えが悪くなっていて、調べてみたのだがわからなかった。
だが、この話を聞いて「『嘘をつく』ということは、人間が人間らしく生きる手段ではないのか」と、私は考えるようになった。
我々男性陣より、言葉を覚えるのが早い女性陣の方が、はるかに嘘がうまいのも頷けるということだ。
「ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard, )」というフランスの映画監督がいる。『勝手にしやがれ』などの作品で有名な方だ。20世紀の最も重要な映画作家の一人とも称されている。
彼の作品に『女と男のいる舗道』というのがある。1962年の作品なのだが、主人公のナナという女性と哲学者の会話がとても面白い。そのひとつにこんなのがある。
『嘘も思考を深めるひとつの手段だ。誤りと嘘の間に大きな差はない。もちろん日常的な嘘は別だよ。五時に来ると言って来ないのはトリックだ。微妙な嘘というのは、ほとんど誤りに近い」というものだ。
確かにこのように言われると、嘘と誤りの違いを見極めるのはとても難しい。「知るのは本人ばかりなり」というところか。
今回の作品では、【嘘と間違い】にまつわる少し切ない話しをしてみようと思う。
【 ストレイシープ 1 】
「血縁とは、なんだろう?」直人(柴田直人)はタバコを吸いながら、夕暮れが迫った街並みを眺めていた。
自宅は十階建てマンションの五階、直人がいるベランダでは北風が吹き荒れている。
舞い散る粉雪を見て「彼らは寒くないのだろうか?」そんなことを思ったりした。
横澤(横澤和哉)の苦悩に充ちた顔を思い出す。
「柴田さん、実は私の子どもが…… 違うかもしれないんです」
「違うって、何が?」
「私には、『普通にセックスしても子どもはできない』と言われました」
突然、こんなことを言われて、楽しい人はいないだろうが…… その理由は、子どもとの血縁とは別のところにあるだろう。ざっくり言ってしまえば『女に不貞があったのか?』という疑いだ。
なぜなら、女は自分の腹の中から出てくるのだから、子どもとの血縁は疑いようがない。しかし男には、本当のところがわかっていない。
つまり男は、自分の子どもだと信じることしかできないのだ。
「だが、横澤さんの場合は……」
そんなことを考えながら、昨夜のことを思い出してみる。
「頼まれたわけでもないだろうに、余計なことをして……」
自分の心に怒りの感情が渦巻くのを、直人は感じていた。
昨日の夜、直人は編集者との打合せを兼ねた食事をと、久しぶりに国分町にきていた。新年のゴタゴタが終わり、小正月が始まる一月十五日のことだ。
直人は三六歳、自称「小説家」である。ただ、書いてはいるが売れてはいない。もっと言えば、出版にさえ辿り着けない。ということで収入源は別なところにあった。
主な収入源は、巷でよく聞く「ゴースト・ライター」だった。他には「心理カウンセラー」や「コンサルティング」などもしている。
そんな直人は職業柄、服装はカジュアルなものが多い。昨夜はウールコートにダークなパンツ、首に大判マフラーを大きく巻いていた。
打合せが終わると、直人は一人「Boot」に向かった。
このカクテルバーは、定禅寺通りに近いビルの地下にある。会員制のその店を、直人は仲のいい出版社の及川に紹介してもらった。
少し動作の重いドアを引くと、静かにバラードが聴こえてきた。
バーテンダーに軽く手を上げる。
「柴田さん、お久しぶりですね。こちらにどうぞ」
「やぁ、久しぶり。お変わりありませんか?」
馴染みのバーテンダーは笑顔で直人を迎えた。
この店にBOX席はない。楕円形を半分にしたようなカウンターがあり、座り心地のいい椅子が並んでいる。
音楽は流れているが、意識しないと聴こえないくらい店内は静かだ。
照明は明るすぎず、暗すぎず、『丁度よい』とはこういう時に使う言葉だったんだと、この店に通うようになって直人は初めて気づいた。
バーテンダーを含めて、この店のスタッフは全員男性だ。それも俗に言われるイケメン揃い。だからといって女性向けというスタンスではない。
事実、客は圧倒的に男性ばかりだ。たまに見かける女性客は、必ずといっていいほど常連客の連れだ。
直人が通いだしてもうすぐ二年になるが、女性だけで訪れていた客を見かけたのは、僅か数回しかない。
酒と女はセットだと考えていた直人の価値観は、根底から突き崩された。
だが、その価値観は誰かから植え付けられたもので、直人自身はこの店の雰囲気の方が好みだと気づいた。
私たちは不知不識のうちに、いろんな価値観を誰かに植え付けられている。自宅で、学校で、職場で様々な人たちからだ。
そして報道の自由を楯に、一方的に流される様々なテレビやラジオ番組やCM、週刊誌やインターネットからの情報などがその根源になっている。
こうして植え付けられた価値観を、自分の価値観だと勘違いしていることがとても多い。
つまり、ただなんとなく『これはこういうものなんだ』と思い込まされていることが、とても多いということだ。
直人はあまり酒が強くない、そのため酒の席は苦手な方だった。
この店は酒を飲むというよりは、酒を楽しむことを目的として通っている客が大半だったため、酒が弱い直人にとっては、数少ないとても居心地の良い店だった。
クリエーター的な活動を生業としている客が多いのも、この店の雰囲気を作っているのだろう。
そんな中、一風変わった客もたまにはいる。横澤はそんな一人だった。
直人をいつも先生と呼ぶ横澤は地方公務員、児童養護施設に勤務している三十代前半の男性だ。
そんな彼はいつもスーツを着ている。色は黒や紺系の地味なものが多い。飲んでいる時はネクタイを外しているため、メタボなお腹も目立ち、あまりスマートとは言えない。
焼き鳥店や居酒屋などでは気にならないだろうが、やはりこの店では浮いてしまう客の一人だ。
昨夜の横澤は酷く酔っていた。
「先生、こんばんは。ご無沙汰でした」
「あ、横澤さん、こんばんは。お久しぶりでした」
酒がすこぶる強いはずの横澤が、こんなに酔っているところを直人は初めて見た。
「今日、先生に会えて良かった。お会いしたくて通い詰めていたんですよ」
「そうだったんですか、それは失礼しました。何か私に?」
「実は先生にちょっとご相談がありまして……」
「横澤さん、ずいぶん飲まれているようですけど」
「はい、酔ってますよ。酒を飲んだから、酔いましたよ」
「大丈夫ですか?」
「はい、酔ってしまいましたが大丈夫です。それより、話を聞いてくださいますか?」
「わかりました、お聞きします。ここでいいのですか? それとも場所を……」
直人の話が終わるのを待ちきれないように横澤が言った。
「場所を変えていいですか? あ、でも先生は今来たばかりだから、ゆっくりしたいですよね。どうしようかな……」
呂律の回らない横澤は、話しながらバーテンダーをチラリと見た。
いつものジンジャエールを直人の前に出しながら、バーテンダーが直人に耳打ちする。
「横澤さん、今日は特に酔いが酷いです。お願いします」
バーテンダーの「連れ出してもらうと助かる」という意図を感じた直人は、ジンジャエールを一口飲んでから横澤に言った。
「いいですよ。お付き合いしますから出ましょう」
「いいんですか、ありがとうございます。さすが先生だ話が早い」
横澤はまるで酔いが醒めたような顔になり、直人がジンジャエールを飲み干す間に自分の会計を済ませている。
「こういうところはさすがだな~」と思いながら、直人は横澤を見ていた。
「それじゃ、私も」と言いながら直人が財布を取り出すと、バーテンダーがそれを手で制してから「柴田さんの分はこちらで……」と、小声で言った。
「いいのか?」
「大丈夫です、お願いしたのはこちらですから」
「ありがとう。じゃ今度、埋め合わせするよ」
「わかりました、お待ちしています。ありがとうございました」
会計を済ませた横澤が、しっかりとした足取りで直人の隣に立った。
「先生、行きましょう」
「はい、わかりました」
直人は立ち上がり、バーテンダーに軽く会釈して店を出た。
「どうします? 飲みながら話しますか?」
直人の問に、横澤は少し困ったような顔で何かを考えていた。
「先生、これから何かご予定は?」
横澤の態度は、先程直人に見せた酔っ払いのものではなくなっていた。
「予定はないので大丈夫です。それよりどうします? これから」
聞きながら直人は時間を確かめた。編集者との食事は早めに切り上げたので、まだ二十二時を過ぎたばかりだった。
「これは…… 今日は長期戦覚悟か」と直人は思った。
「先生、静かでゆっくり話のできるところ、ありませんか?」
「おい! 場所を変えようと言ったのはお前じゃないか。それなのに行くあて無しか!」
寒さのせいもあり少し苛立っていた直人は、喉まで出かかったこの台詞をやっとの思いで飲み込んだ。
「珈琲店ならありますが、酒はありませんよ」
「今夜はもう飲みません、それよりこんな時間にやってますか?」
「大丈夫だと思います、ダメだったらファミレスにでも行きましょう」
「さすがだな~ 先生は」
「じゃ、行きましょう。少し歩きますよ」
- つづく -
Facebook公開日 3/8 2021
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