【道行き8−1】

「ちょっと走ろうか」

「いいけど、どこに？」

「星を見に行こう」

　そう言って八雲やぐもは車を走らせた。茉由まゆは黙って助手席に乗っている。車は北に向かって走っていた。郊外の住宅地を抜け、県立図書館の横を通り、尚も八雲は北に向かって走り続ける。

「どこまで行くの？」

「南川みなみかわダム」

　問いかける茉由に、八雲は目的地だけ言う。その「南川ダム」には一時間もかからずに到着した。八雲は資料館の駐車場に車を停め、二人は外に出る。

「こんなに近くで、こんな星空が見えるなんて……」

「たまに一人でくる。ここは山に囲まれたような立地になっているから、街の光が入ってこない。きれいな星空が見える」

「本当にきれい」

「・・・・」

　八雲が東京から帰って来たのは、茉由が連絡した日から三日後だった。その前の日の夜、電話で二人はこんな会話をした。

「明日、帰ることにしたよ」

「私、駅まで迎えに行きます」

「いいよ、そんなに気を遣うことはない。まだ時間もはっきりしてないからね」

「でも……」

「アパートに帰ったら連絡する」

「わかりました」

　翌日、新幹線に乗って八雲が仙台駅に到着した時、すでに夕陽は西の空を橙色だいだいいろに染め始めていた。駅のホームを歩きながら、八雲は茉由に連絡する。

「今、仙台駅に着いた。これからアパートに帰るよ」

「わかりました。じゃ私、コンビニで待ってます」

　ということになり、八雲と茉由はコンビニで落ち合おちあった。その後、二人は車でこの南川ダムにやってきていた。

　どのくらいの時間が過ぎたのだろう。二人は黙って星を見ていたが、不意ふいに茉由が話し出した。

「イスラエルに行くんですか？」

「この前の隆夫たかおくんとの話を聞いてたのか？」

「ごめんなさい、盗み聞きするつもりじゃなかったの。でも、聞こえちゃって……」

「かまわないよ、秘密にしていたことじゃない」

「本当なのね、でも、どうして？」

「どうしてイスラエルに行くのか？　ってこと」

「うん」

「仕事、ただそれだけ」

「でも仕事なら、あんな危険なところに行かなくてもできるんじゃないですか？」

「師匠ししょうが行ってるんだ、私のカメラのね。その人が『来てくれ』って言ってる、行かないわけには、いかないのさ」

「いつ、決めたの？」

「連絡がきたのは、二月ふたつきくらい前だったな。それからいろいろ打ち合わせしてから決めた」

「じゃ、私と出会う前？」

「そうだね、旅に出る前だったよ。だから、最後に夕陽を写そうと旅に出たんだ」

「最後にって……　じゃあ戻ってこないの？　もう」

「戻らない。っていうより、戻れないかもしれない。そうなってもいいという覚悟で行く。帰る日を指折り数ゆびおりかぞえるような、そんな半端はんぱなところじゃない」

「え！　だって……　なぜ、そんな危ないところに……」

　茉由の瞳ひとみに涙が溢あふれる。それが頬ほほを流れるまで、それほど時間はかからなかった。

「私はね、自分の家族を捨てた男なんだよ」

「どういうことですか？」

　しばらく沈黙ちんもくしていた八雲が、まっすぐ茉由の瞳を見つめて言う。

「子どもを一人で死なせてしまったのさ、そして妻もね……」

「どういうことですか？」

　また沈黙の時間が流れて、「ふぅ」とため息をついてから八雲は言う。

「やめておくよ。話しても、聞いても、楽しいことはないからね」

　八雲は自身の過去を振り返る。

　八雲は今年の誕生日を迎えると四十歳になるが、食事を作って待ってくれる女はもういない。以前、同棲どうせいして一年後に子どもができたので、籍せきを入れた女はいた。「小百合さゆり」という名前だった。その年の秋が終わるころ、小百合は男の子を産んだ。「昭夫あきお」と名付け、二人はとても可愛がった。

　八雲より三歳年下の小百合は、とても大人しい性格の女だった。決して自分を表に出さない性格の小百合は、「何を考えているのかわからない」と、陰口かげぐちを言われることが多い子だった。

　なぜなのだろう、こういう子どもはイジメに遭あう確率が高い。小百合もその一人だった。小百合の学校生活は、イジメの歴史だったと言っても過言かごんではなかった。一度イジメに遭うと、友だちが作りにくくなる。「イジメられている子の友だちになるということは、自分もイジメの対象になる」ということを、誰もが知っていたからだ。

　今なら行政もマスコミも黙ってはいないだろうが、数十年も前のことである。当時はというより、どの時代にだって当然のことのように「イジメ」は存在していた。むしろ「イジメられる方に問題がある」という風潮ふうちょうも当たり前にあったくらいだ。たぶんイジメをやっている奴らの言い訳として、「イジメられる方が悪い」という言い分は、今でもまかり通っていることだろう。

　そんな時代の中で、自ら透明人間とうめいにんげんの如ごとく振る舞ふるまうこと以外、いじめから自分を守る術すべを小百合は知らなかった。今ならネットで探せばそれなりに情報は得えられるが、当時はそんな時代ではなかった。

　小百合が唯一ゆいいつの味方みかたと思っていた親は、小百合の学校生活にあまり関心がなかった。というより、住宅ローンを抱えた日々の生活を乗り切ることに精一杯で、小百合が朝、学校に行ってさえくれれば、それですべてが解決すると思い込んでいた。「子どもが学校に通うことが、義務教育ぎむきょういくだ」と考えている親が大半たいはんを占しめていた時代だったのだ。

　義務教育の義務は子どもが背負せおっているのではない。日本中の大人が、すべての子どもに、基礎教育きそきょういくを受けさせる義務を背負っているのだ。だが、ここが理解できていない大人は今でも多い。

　そんな時代に翻弄ほんろうされた小百合は孤独な女になっていった。親友はおろか、友だちすらほとんど作れないまま高校を卒業した。小百合は大学へは進まず、父親の知人が経営する小さな出版社に就職し、事務の仕事をしていた。

　一方、八雲の職業はフリーのカメラマンだった。契約している雑誌は数誌あったが、それだけでは食べていけず、幾いくつか副業をしていた。その一つに小百合が勤めていた出版社の仕事があり、担当窓口は小百合だった。この二人は、そこでお互いを知り合った。

　八雲に親族しんぞくはいない。唯一の親族だった母親は、八雲が六歳の時に病死している。なぜか、幼くして一人になった八雲を引き取る親戚しんせきはなく、天涯孤独てんがいこどくとなった八雲は孤児院こじいん（現・児童養護施設じどうようごしせつ）で育った。

　孤児院での八雲は孤独だった。同じような境遇きょうぐうの仲間との団体生活に、八雲はいつまでも馴染なじめなかった。そのため、いつも一人で時が経つのを待っていた。夜が来て自分のベッドに横たわると、八雲はやっと安心できた。その時間のその場所だけが、唯一自分だけのものだった。そんな八雲は、仲間はいても親友と呼べる人間を一人も得られないまま孤児院を出た。

　　ーー続くーー