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【道行き4-2】

【第四章『昇の店』-2】

「喫茶 姫の館」を開店させたのぼる夫婦だったが、わずか一年足らずで妻の郁恵いくえが亡くなり昇は店を閉めた。夫婦仲が険悪けんあくだっだ茉由まゆは、昇のことが心配で別居を決意し実家に戻る。

 そんな茉由に、姑から離婚届が送られてきた。

「こんなものも、自分で送れないのか」茉由は腹立たしい気持ちをおさえ、夕食の後で昇に離婚届を見せた。

「いろいろとごめんなさい。保証人のらん署名捺印しょめいなついんしてほしいの」

 離婚届を受け取ると、「本当にこれでいいのか?」と昇は茉由に聞いた。

「残念だけど、お父さんとお母さんのようにはなれなかったわ」とだけ茉由は答えた。

 そんな茉由の離婚が、妻との思い出の中で一人孤独に生きているような昇に転機てんきを運んできたのは確かだった。ひとり娘の茉由が実家に戻り、どうのこうのと小言を言うことも増えた昇だったが、腹の中では手放しで喜んでいたのだ。それから茉由は家事一切をこなし、昇と親子ふたりで自由奔放じゆうほんぽうに暮らしていた。話し相手と食事という健康的な生活が日々目の前に用意され、昇の体調も日増しに回復していった。

 そんな日々を送っていた昇だったが、やはり妻の郁恵いくえを思い出すことも多かった。特に二人で作り上げた店を見ると、喪失感そうしつかんおそわれ気持ちは落ち込んでしまう。そんな昇にもう一つの転機がやってきたのはその頃だった。

 それは親しい友人からの一本の電話から始まる。

「どうしている? 元気なのか?」

 大学時代の悪友あくゆう尾形おがた」からだ。この尾形とは大学卒業後も付き合いは続いていて、飲み友達でもあり郁恵の葬儀そうぎにも参列さんれつしてくれた、昇の数少ない親友の一人だ。

「あぁ、元気にしてるよ。茉由に尻を叩かれながらだけどね」

「そういえば、茉由ちゃん帰ってたんだったな」

「出戻りだが、オレは助けられたよ」

「ま、人の縁なんてものはそんなもんじゃないのか。あの小僧に茉由ちゃんはもったいないと、オレは思っていたけどね」

 相変わらず、尾形の口は悪いままだ。

「ところで今日はどうした、何か急用か?」

「そうそう、用事があって電話したんだ。今夜一杯どうだ、悪い話ではないぞ」

 尾形は含み笑ふくみわらいでもしたそうに、自信満々じしんまんまんという口調くちょうだ。

「どうもお前の話はな…… まさかまた変な儲け話もうけばなしじゃないだろうな」

「違う違う、もっといい話だ。今のお前にはもってこいの情報だよ」

「わかった。で、どこにする?」

 ということで、二人は行きつけのスナックで落ち合おちあうことになる。

「もういいかな? 尾形と待ち合わせなんだが」

 早い時間のためだろう、店に客はなくバーテンダーが退屈たいくつそうにグラスをみがいていた。

「いいですよ、どうぞこちらに」

「ありがとう」

 昇はカウンターの奥に腰を下ろす。バーテンダーは何も言わず、スコッチの水割りを昇の前に出した。

「ママは?」

「今ちょっと、野暮用やぼようってやつで」

「そうか、いつも忙しそうだもんな、ママは」

 そんな当たりさわりのない会話をして時間をつぶしていると、店のドアが開きがっちりした体格の男性が入ってきた。昇の悪友でその夜の主役、尾形だ。

「お待たせ、という程の遅刻でもないか、アハハ!」

 この男は時間を守るということができないらしい、その夜も一時間近い遅刻だ。「あぁ、大した遅刻じゃない。たかだか一時間ほどだ」と、嫌味いやみたっぷりに昇も言い返す。

 バーテンダーがグラスを尾形の前に差し出しビールを注いだ。

早速さっそくで悪いが時間があまりないんだ、まだ仕事が残っている。社に戻ってもうひと頑張りってとこだ」

 尾形は、小さな出版社を経営している。

「そんなに忙しかったんだったら、日を改めても良かったろう。大丈夫なのか」

「ま、こっちは何とでもなる。それよりもお前さんへの情報の方が急ぎだ」

 と言って、尾形は話し始めた。

 尾形には、オーディオ好きの伯父おじがいた。その伯父が先日亡くなり、趣味で集めたオーディオ機器と数百枚のレコードが遺品いひんとして残された。

 尾形の伯父は生涯独身だった。そのため、弟である尾形の父親が遺品整理を任されることになったのだが、まったくオーディオの知識がない父親は、これらを二束三文にそくさんもんでリサイクルショップに売ろうとしている。

 それに気づいた尾形は、あわてて父親にストップをかけたのだ。

「オレの友人にこういうものが得意な奴がいる。二束三文で売り飛ばす前に、そいつに見せてやってくれないか」

「そんな奴がいるのなら連れてこい。なるべく早くだぞ、こっちもグズグズしている時間はない」

 ということで「親父の承諾しょうだくているから、一緒にそれを見に行かないか?」というのが、尾形の話の内容だった。

「どうだ、いい話だろう」

「わかった。で、いつ見に行く?」

「親父は早くと言っているから、明日はどうだ。昼からなら時間を作れる」

「仕事は大丈夫なのか?」

「今夜が山だ。明日は昼前に出社して様子を見てからお前の家に行く。オレの分の昼飯ひるめしも頼むと茉由ちゃんに言っておいてくれ」

うちうのか?」

「もちろんだ。久しぶりに茉由ちゃんの手料理をご馳走ちそうになるつもりだ」

現金げんきんな奴だ。わかった、茉由に言っておく。で、その伯父さんの家はどこなんだ?」

東根市ひがしねしだ」

山形やまがたのか?」

「そうだ」

「ちょっと遠いな」

「そんなことはない、四八号線で一時間だ」

「確かに、それぐらいで着くだろうが……」

「じゃ、決まりでいいな」

「わかった」

「それじゃ、明日」

 グラスに残ったビールを飲み干すと、あわただしく尾形は帰った。

「明日は山形ですか?」

 バーテンダーが聞いてくる。

「あぁ、なんだかそういうことになった」と答え、昇も店を出た。

「こんにちは、尾形のおじさま」

「おう、茉由ちゃん、元気そうだな」

「はい、お陰さまで」

 尾形が来ると、茉由は喜んで玄関から飛び出した。

 この尾形は茉由の運転の師匠ししょうだ。茉由が運転免許を取得しゅとくできる年齢になる前から、運転のイロハを徹底的に教え込んだ。ジムカーナが趣味の尾形は、茉由が高校生になると面白半分で自分の競技車に茉由を乗せた。茉由はその一回で車に魅了みりょうされ、尾形が走りに行く時はいつも金魚のフンのようについて行った。

 始めはほんの気まぐれ程度に運転させていた尾形だったが、茉由のセンスと吸収力に驚き、本格的に仕込んでいった。コースアウトを繰り返したり、車をひっくり返したり、エンジンをブローさせたり、ミッションを壊したりする茉由を、尾形は一切咎いっさいとがめることなく車を直し、運転させ続けた。

  ーー続くーー



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