エッセイテーマ:大切なもの 「星の見えない夜」富喜ちひろ
先日、仕事を辞めてきた。
後悔や不安を煮詰めたような淀んだ気持ちと、晴れて自由になれる清々しい気持ちとが胸を渦巻く。選ばなければ溢れるほどの仕事があるこの東京で、仕事くらいライトにやめられたらいいのにと思う。
東日本大震災が起こった年の秋口、私は北海道行きのフェリーに乗っていた。
数日かけて東海地方から北海道へ行くフェリーの中は、ホテルのロビーのような空間が広がり、船内に舞台まであるような造りだ。360度見渡す限り海であり、海上では電波も通じなくなる。とても静かで非日常な空間だった。
当時いろいろあって東北地方の小さな音楽事務所に所属していた私は、その中の舞台で催し物として夜にジャズを歌う事が仕事であった。そのころ私はまだ十代で、社会と言う大海原に飛び込んだばかりの身だ。毎日誰かしらに叱られ、うだつの上がらない自分に辟易していた時期でもあった。
その日は昼頃に宮城県の港からフェリーに乗り込み、夜に船内のステージで歌唱し翌日には北海道につくスケジュールであった。ただの平日だった気がする。船内で見かける乗客は少なく、ステージから見える人影もかなりまばらだった。
夜のステージを終え、船内のロビーで一緒に演奏したピアニストと小さな打ち上げをしていた時、とある中年男性に声をかけられた。
「あの、演奏すごくよかったです」
終わったばかりのステージの感想を伝えに来てくれたのだった。
細縁フレームの眼鏡をかけチェックシャツを着たその男性は三十代後半に見えたが、髪には白い毛が混じり少し疲れているように見えた。
「あ、そうですか。ありがとうございます」
お礼を言い、私はそうそうに打ち上げも切り上げ部屋に帰ろうとしていた。しかし、このピアニストがやけに社交的な人で、自分が飲んでいた日本酒だかワインだかをわざわざ男性に差し出し、気づいたころには自分らの席に座るよう勧めていた。
この頃の会話と言えば、あいさつ代わりに震災の時の話になるのが常であった。実際私も震災の時は宮城県におり、震度6強を体験していた。地震が起こった当時、近くの家の屋根瓦がバラバラと落ち、目と鼻の先にあったた木造住宅が見事に崩れ落ちていった。そしてこのことはあまり報道されていないのだが、地震直後に一時的な猛吹雪があった。地震が起きて2時間後ほどだっただろうか。倒壊した建物やそこから外へ避難してきた人たちに、もう3月だというのに容赦なく激しい吹雪が吹き付けていた。前代未聞の大地震、その上吹雪だ。「神様って居ないんだな」と半分思考停止した頭を抱え、普段なんの信仰もしていない私だが、この時ばかりは神様が居てほしいと思った。
その後も復興を掲げ、ぼろぼろの街はいつも通りの生活を必死に作り出そうとしていたが、いつもどこかで悲しみの匂いがしていた。
この男性ともそんな話になり、地震の時どこにいたのかという事が話題にあがった。
「僕、実はその時福島で。原発のところに居たんです」
その時、空気が一瞬変わった気がしたのを今でも覚えている。男性は言いづらそうに話を続けていた。
「あの時、原発に居て従業員の避難を誘導していました。仕事は、その後に辞めてしまって。僕は……逃げたんです」
困ったように笑う男性は、ピアニストからもらった酒をちびちびと飲んでいた。
震災後から連日報道されていた、原発事故。世界最悪レベルの事故を間近で男性は体験したようだった。
ピアニストは男性を励まし、何度も酒をすすめていた。
男性は仕事を辞めたが、次の就職先を探すこともせず、今こうして船に乗っていると話した。私はその夜、ほとんど何も話さなかったように思う。ただ目の前の二人を眺め、男性の話を聞いていた。時刻が22時になろうとしたとき、ロビーの明かりが一段階暗くなり、それを合図に私たちはそれぞれの部屋に戻っていった。
自分の部屋に戻ると私は簡易的なベッドにすぐ横になり、男性の言葉を思い出していた。部屋から見える窓の外には、船の明かりで少しだけ照らされた海が映し出されていた。星の見えない夜だった。
あれから十年ほどが経ち、私は紆余曲折あり東京で看護師になっていた。
姿かたちのない新種のウイルスに、数年も行動を制限される未来を誰が想像していただろうか。そして、そんな時期に自分が看護師でいる事なんてもっと予測をしていなかった。
新型コロナウイルスが流行り始めたばかりのころ、私は偶然にもコロナ病棟へ配属されていた。訳の分からない病気で、あっという間に人が病魔に苦しんでいく。とても恐ろしい光景だった。
いろいろあった。本当にいろいろあった数年だったが、私は先日、職場に退職届を出してきた。
自分の決断が正しかったのか、いつまでも振り返っては湿っぽく悩んでいる。今時、転職なんて何も珍しいことじゃない。スマホを開けばいつだって無数の求人情報が映し出される。
だけど、いつだって心は自分自身へクエスチョンマークを掲げたままだ。
「本当にこれでいいのか?」
仕事くらい、ライトに辞められたらいいのに。
今、あの船内で出会った男性のことが思い出される。あの夜の後、彼がどんな気持ちで、どこへ向かっていったのか。私には分からない。けど、何か生きていくための光を探しに、船に乗っていたように私は思う。
自分の努力や知恵だけではどうにもできないほど、大きな不運が時に訪れる。光の見えない、真っ暗闇の中に放りだされたような時がある。そんな時、社会と言う大海原で生きていかなければならないのだなとも思う。希望を見失った夜でも、光を探し続ける強さを持っていたい。けど、その強さを本当に持てるのかな、とも思う。
あの夜出会った名も知らぬ男性に、今もう一度だけ会いたい。
エッセイ「大切なもの」~星の見えない夜~
書き手:富喜ちひろ
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