三題噺SS『ガマカエルの鳴き声〜研究室にて〜』富喜ちひろ
お題目
「ガマガエル」
「入浴」
「スローモーション」
『ガマカエルの鳴き声〜研究室にて〜』富喜ちひろ
「退屈だな」
アズマが、濡れた蛍光灯を見上げながらぼそりと呟く。この研究室では、全てがスローモーションのように一日が流れていく。単調な日々だ。
「あれって、生活上必要なものなのかな。それとも娯楽か?」
話題を絞り出し、僕はアズマに話しかける。笹森という女の研究員が水槽を洗っていた。いつも笹森は、長い髪を頭の高い位置で一つに結わえている。歩くたびに揺れるそれには、なんの意味があるのだろう。
「娯楽だろ」
アズマは、じろっと笹森を横目で見てそういった。
「娯楽……」
「身体の一部をわざわざまとめて、揺らして歩けば多少は愉快なんじゃないか。何もしないよりは」
「そんなもんか」
「さあ。ミヤコがいればな。あいつが1番古株だったから、それなりの知見もあったと思うけどな」
いつも話す仲だったミヤコが姿を見せなくなったのは三日前のことだ。そのことについてそれ以上言及することなく、会話は途絶えてしまった。アズマは図体がデカいわりに案外繊細で、心が動揺するような話題には決して触れない傾向があった。
研究室の引き戸がガラガラと音を立て、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。田村だった。
「はあ」
田村はわかりやすくため息をつき、丸椅子にどかっと腰掛ける。
「お、田村くん。どうしたの」
笹森は水槽を洗っていた手をタオルで丁寧に拭きながら、田村に話しかける。
アズマと僕は黙ってその様子を少し離れたところから見つめていた。
「全然ダメ。どの研究室当たっても空きなし。就職の道途絶えたり」
「まあ、そんなもんじゃないの。そもそも就職する気なんてあったんだ」
「うーん。ないと言えば嘘になる。あると言っても嘘になるな」
「なにそれ、ないんじゃん」
笹森は笑みを浮かべながら、水槽の片付けを進めていた。ブラインド越しに差し込む日の光に結った髪が透ける。
「世の中さあ、『ポスドク問題』って話題にするくらいなら対策を打ってほしいよな。あんなに時間かけて博士をとったのに、大学にあるのは任期付の仕事だけ。いつ無職になってもおかしくないってやばいでしょ」
「うちら生物科の博士課程は『ニート養成所』って言われてるらしいよ。30歳近くになって研究しかしてこなかった人は履歴書も職歴欄空っぽだもん。結局、運良く助教の席が空くのを待つしかないのかな」
「その席が空いたって、そこに群がる何十の人がいるんだぜ。とんでもない椅子取りゲームだよ。俺むり」
「じゃあ、研究諦めて適当な企業に就職だね」
「それはもっと無理。朝起きれないもん」
二人の乾いた笑い声が研究室に響く。
ポスドクという奴らが、いつもここにたむろしている。どいつもこいつも、なんとなく行き場がないことは分かる。この場所は、袋小路なのかもしれない。ただ、どんな場所であっても隣に愚痴の一つでも吐ける相手がいれば、今日をやり過ごすのに十分な理由になる。
「私もう帰るけど、田村君は?」
「俺は、症例三をやってしまわないといけないんだなあ。症例二でいい結果出てるから、さっさとやってしまいたい」
「ふーん。じゃ、お先」
笹森は髪の毛を揺らしながら、外に出て行った。田村はしばらく笹森の後ろ姿を見つめ、姿が見えなくなると大きく肩を落として溜息をついた。
「さ、やるか」
田村は棚から『MS222』と書かれた小瓶を手に取った。白い綿のようなものにその小瓶の中の液体を染み込ませている。その綿を小さな四角形のケースに入れると、田村はこちらに手を伸ばしてきた。
◇
気が付くとアズマはいなかった。研究室には僕と田村だけ。窓の外は紫色に染まり、外から短い音楽が聞こえた。
「終わった……。風呂でも入りに行くか」
田村は独りごちながら手を洗っていた。爪はブラシを使い、肘まで洗っている。そそくさと手を拭くと、あっという間に研究室から出ていってしまった。
そして、僕はひとりになった。
今までと変わらない、単調でスローモーションのような時間が流れる。
アズマは、ミヤコは。どこに行ったのだろう。
分からない。
分からないけど、田村や笹森が関わっていることは分かる。その理由が、生活上必要なものなのか、はたまた娯楽なのか。知り得ない。
しかし、アズマやミヤコがいなくなって。それでも変わらずに生活は回り続けている。きっと僕も例外ではない。その事実に、不思議と肩が軽くなる。
全てが娯楽めいて、仮初のように思えるのはどうしてだろう。それは、僕自身が田村や笹森の娯楽めいた選択に生命を委ねているからなのかもしれない。
どんなに色のない日常でも、愚痴のひとつでも吐ける存在が隣にあれば今日を生きるに値する。
僕は大きくため息をついた。
「ゲロゲロ」
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