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私たちの目は実のところほとんどみえてない

私たち大人が自分に植え付けられた
不自然な情報、思い込み、価値観、
常識をまた子どもたちに
植え付けていく。

まだ何にも染まらず
感覚で生きる子どもたちは
私たち大人より
遥かにこの世界の本質をつかみ、
自然とつながり
調和する生き方を知ってる。
子どもの言動は大人が大切なことを
思い出す上で重要なメッセージだ。
とらえ方を変えれば
人生の先輩ともいえるんだな。

そんなことを考えながら眠りについた
翌朝、あるメッセージが届いた

「知らないことを知ろうとする気持ちが
運気を上げる。今日は先輩と
一緒にでかけてみて。きっといい出来事が…」

先輩、、、子どもたち???

なんて思いつつ
風邪を引き本調子ではなかったので
その日は家でゆっくりしようと
思っていた。

家事をして、
少しゆっくりしようとすると
またそのメッセージが頭に浮かぶ。
いやいや、今日はゆっくりしなきゃ…

そうして横になると
息子が急に泣き喚き
公園行く〜!外行く〜!バス乗る〜!
と大騒ぎして行くと言い張り、
しぶしぶ出掛けることに。

やはり今日は出掛ける日か…

そして、実家に向かい
氏神さまの神社の前にきた瞬間
あるものをみて衝撃を受けた。

現代は
みえない世界が
みえてない人が多いけど、
みえる世界についても
同じことが言えると痛感した。

何十年もこの景色をみてきた
はずなのに
何故今までみてなかったのか。
大きな石があることは知ってるのに
石に刻まれたその文字を
1度も読んだことがなかった。
いや、読んだとしても
上の空で頭には入ってなかったのか、
忘れたのか、、、、
でも潜在意識には入っていただろう。

みえる世界のものも
みようと思わなければみえない。
受け取れる、受け入れる
タイミングになるとみえる。
直感、メッセージだってそうだ。

数年前、本堂の防犯カメラに
うつった天狗さま。
今年になり御縁あって
出向くことになった鞍馬寺、
8月8日鞍馬で出逢った一冊の本に
書かれていた「猿田彦大神」の存在。
祭られてる神社にも
呼ばれたことなかったので
はじめてその存在を知り、
御縁が深い方(著者)もいるのだな
なんて思いながら読んでいた。

猿田彦大神の姿は天狗のよう
なので、防犯カメラにうつったのは
天狗ではなく猿田彦大神だったの
かもしれない。
「おみちびきの神様」といわれる
猿田彦大神が鞍馬に私を
みちびかれたのだろうか?

求めるもの、知りたいこと、
人生において重要なことは
遠くの国ではなく日本にある。
ここ最近そう気付きはじめ、
あんなに行きたいと思ってた
海外よりも、日本への興味が
強くなってきていた。

生まれた国の本当の歴史、
神話、古来の風習、伝統も
まだまだ知らないのに
いつも遠くばかりみてきた。
遠くの方がきらびやかにみえ、
視野も世界も広がるように感じ、
求めるものがあるように思えていた。

けど、
知りたいこと、ワクワクすること、
問題解決方法も
生まれた場所や自分の内側にある
ことの方が多かった。

すでにここにあることを
思い出し、腑に落ちる
プロセスを
繰り返している。

「生きてる間に
知りたいことは全部知れる」
「みたいものは全部みれる」
「全てすでに自分が知ってる」
「みたもの、聞いたもの、
出逢った人、出来事、、、
本当は何1つとして
忘れない方がいい。
でも人は大抵忘れる」
そう伝えてくれた阿闍梨の
言葉たちも
「猿田彦」の文字をみた
瞬間、頭に浮かんだ。

出掛ける前、
子たちがどうしても
やりたいと言って聞かなかった
オラクルカード。
44枚あって、それぞれに
沢山シャッフルしたのに
2人は同じものを引いた。
キーワードはこの出来事と
繋がるものだった。

そして
私と息子が何故か気になった
1枚は「目」のカード

「綺麗な目ね。
みんなそういう目をしてるんだよ」
と、息子たちに話していた。

人間の目は実は
ほとんどみえていない。
みえているのにみようと
しないからみえない。
受け取れる時がきたら
そのタイミングで
みることができる。

美しいもの、ワクワクするもの、
ファンタジーな世界をとらえる
目を私たちは持っている。
気付いてないだけ
とらえてないだけ
みようとしてないだけで
本当は視界に入ってる。

あらゆるもの、出来事、
この世界がどううつるか、
どうとらえるかは自分次第

大人が子どもに
教えられることなんて
ほぼないから
育てよう、教えよう
と思わなくていい。
多くの大人が忘れている
自分の人生を生きる楽しさも
思い出させてくれるのは
希望に溢れた子どもたち。

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