今週の一首9~毎日お題より~

こんにちは。今回は年の瀬にもかかわらず十二月頭に発表された歌について書いていきたいと思いますです。もうみなさんいい加減お分かりかと思いますが、週一の原稿ですらこんな調子なのでクリスマスも当然一人です。今ですか?はい、家の前のココスで一人でこの原稿を書いております。クリスマスだというのに。今なら新興宗教の勧誘にもひょいひょいついて行く事でしょう。寂しさここに極まれり。とにかく人と話したいので明日は近所の小学生達の輪に入ってデマを吹き込んでこようと思います。

花びらを踏んづけながら笑っているあの子みたいに普通になりたい / たなか

十二月二日のお題「軽く誰かを呪う短歌」に投稿された一首。切実な強い感情をさらりと詠んでいる、美しい一首だと思います。言わずもがなこの歌の魅力は歌意そのものです。主体の抱える鬱屈とした感情を共感性を伴わせてさらりと詠んでいるところに凄みを感じます。三句目と五句目が字余りですが、リズムの崩れもその強いメッセージ性で一気に乗り越えていきます。

私が短歌を始めて間もない頃(今でも二年ちょいの若造ですが)、三句目と五句目の音数はきっちり揃えろ、と誰かがTwitter(Xなんて言わない)で呟いているのを目にしました。確かに三句目は下句へのつなぎとなる部分ですし、五句目は所謂着地の部分です。ここが上手くいかず崩れてしまうと歌にがたつきが生じることが多いです。これは短歌が歌であるということを再認識させてくれる重要なアドバイスだと思います。しかし、短歌は歌(詩)であるが故に音律とともにそこにあらゆる感情・物語をのせていくものです。この歌は音の崩れを読者に強く訴えかける歌意・詩情で軽く乗り越えているのではないでしょうか。

また、そこに一役買っているのが上句であることは言うまでもありません。花びらを踏んづけるという残酷な、それでいて詩的な情景。この「花びら」にはあらゆるものの象徴としての意味がぎゅっと詰まっています。そしてそんな上句を受けての下句での感情の吐露。構造としても美しいです。

そして面白いのは「普通になりたい」と願う主体の感情に私たちが共感してしまうところでしょう。共感というものはある程度自分との類似性があるところに発生する感情です。この歌の主体に共感するということは私達読者も「普通になりたい」思ったことがある「普通じゃない」人々なのでしょうか。はい、ここまでくるとまた「じゃあ普通って何」問題が立ち上がってきますので、しっかり書くとなると後一ヶ月お時間をいただくことになります。やめときましょう。

あ、どうやら私のパフェがきたようです。寂しいので初対面の店員さんと世間話でもしようと思います。嫌われる客ランキング上位のタイプ?うるせえ。
あ、お姉さんお姉さん、これは僕が一世風靡セピアにいた時の話なんだけど、、、

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