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GREEN MIST【初・小説投稿/短三編】


(一)

静かな暮らしが続いていた。
二人の時間、穏やかな午後。
彼女の焼く焼き菓子。
それにはいつも、ミントが使われた。
僕らはそれをカフェインで流し込んだ。
夜は眠り、朝は絡み合って、順番に身支度をした。
二人の興味は違っていた。
着る服も、聴く音楽も、好きな果物も。
行きたい場所も、懐かしい場所も、嫌いな場所も正反対だった。
だけど、人生の考え方は同じだった。


初めて出会った時、その目はとても穏やかだった。
微睡から目覚めて、優しい猫に噛みつかれたような愛らしさが、僕の心の、自分でも触ったことのない場所を、人差し指でなぜた。
僕はその感覚が忘れられなくて、淡いグリーン色の瞳を追った。
その色は、対象が変わる度に何色にも変化して、幾つもの惑星を見ているようだった。
僕は気がついたら彼女の横にいて、滑らかな地平線をいつまでも見ていた。
僕らという、陽が沈むまで。



彼女がいない時、その体がどこで、何を感じているのか、僕は知らない。
彼女は、僕がいない時、僕が何を考え、何を望んでいるか分かっているようだった。
僕はその能力を欲した。
その為にどれほどの苦痛と、どれだけの辛苦を味わえばいいのか、彼女は知っているんだ。
僕にだけ分からない。
人がどう生きるべきなのか、自分なりに考えてきた事を、実践していたのは彼女の方だった。
僕はどこへ冒険に行けばいいか分からないまま、大人になっていた。
焼いている僕の背中から、まだ何も聞いていないはずのセリフが、時々慰めてくれる。
どうか、そのままでいてくれと。
痛みを乞う僕の気持ちを知りながら、知らないフリをして。
僕は恍惚と安堵の間で、いつも悶えた。



僕らの街は、開発と退行を繰り返した。
古ぼけたビルが未来感のある服に着替えても、人の思考が懐古していく時代だった。
そこに答えがあろうとなかろうと、僕らは、かつてどうやって生きていたのか、何に怒り、何を渇望していたのか、記憶を探ることに費やしながら、未来の服を作っていた。
正確には、忘れゆく運命に、俄な抵抗を覚えているだけだった。
今、手にしている確実な変革を、腫れ物みたいにして。

彼女の心は、空を抜け、深海へ飛び込んで、日々何か獲物を取ってくる人間そのものだった。
部屋にはいつも、何気ない変化が持ち込まれた。
小さな多肉植物。探していた大きさのマグネット。
使わないインスタントカメラ。
ターコイズ石の鯨。廃材で作られた束子のキリン。
ミモザの香木箱。

僕がその理由を尋ねるのをやめた頃、彼女は初めてのケーキを焼いた。
やっと好きな型が見つかったと言って、ごく普通のステンレスの丸型が、カウンターで王冠の様に輝いていた。
反射する光の源である、8月の日差しに満ちたベランダから入場する彼女の手には、庭で摘まれたミントが思い思いにくるまっていた。
それを紅茶に浸して、夏の終わりをごくごくと流し込んでいる時、乾燥した空気と、目の前の瞳に、新しい色が宿っている事に気がついた。
何か尋ねようと思っても、言葉の浮かばない僕は、ミントティーをおかわりし、いつもの笑顔が、シンクのあるキッチンへ消えていくのを見ていた。
この瞬間をなぜか、今でも激しく後悔している。



仕事らしい仕事のない平日。
僕の仕事は相変わらず、無数の声との対話だった。
メタ空間の一角で、マトリョーシカのように、どこまでが人で、どこまでがコンピューターか分からない声たちに、切り返す言葉を投げかけてゆく。
ありとあらゆるパターンは、この時は止まる事がないのにと思う。
ここには、僕がどんな人間で、僕が何を投げかけて欲しいか分かっている人や、AIしかいない。
彼らは僕の思考回路を学びたいだけだ。それが役に立つかどうかよりも。
特殊な自己満足の応酬が繰り返されている。
悲しい事に、僕もそれがやめられない。


僕は彼らとのやりとりを記録していく。それらを整理して、保存すれば、1日は終わる。
分かりやすく言えば、ここでは誰もが好きな事をして、個人的なノルマをこなしたら、好きな場所へ出掛けて好きな事をする。
スコア、報酬、不要なアイコンやコンテンツの電子経路交換。
現実に戻ると、その瞬間から彼女の声が浮かぶ。
彼女もそうだろうかと考える。



ケーキは相変わらず、濃厚なダークカカオの上に、雲を膨らませたような生クリームと、真っ青なミントが添えられていた。
けれど、ミントティーは、いつの間にかエスプレッソに変わっていた。
彼女はそれまで何を飲んでいたのか、興味がないようだった。
こんな風に、二人の思い出の取り留めない部分も、幾度も塗り替えられていった。



情景は変わり続ける。僕らの情熱が不滅でも。
同じ生き方の音色や、その飛ぶ先が違っても、二つの点は繋がっていた。
それは彼女の描く地図の、無限の中にも示されていた。
釈然としないのは、一分一秒を小さな頭の中に押し込めていたいこの欲望と、何もかもを手放していく、フラクタルな彼女の一面だった。
描く地図の形は同じでも、表と裏で言語が違うように、あるいは、着色されたインクが、僕だけ足りないみたいに。
彼女が描いた絵の、何番目を好きだと言っても、その絵の存在は忘れられていた。
勇気だとか、潔いだとか、そんな言葉すら彼女にはないようだった。
絵を描いている時の、その瞳の色を僕はまだ知らない。


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