見出し画像

人生の視点を変えるためには


ゼロになれない人たち

人生の視点を変えるために、まずは心をフラットな状態、ゼロにする事が大切だと最近は特に思う。
ゼロになることは、ありのままであること。
ありのままにならないと、本当の望みは見えてこない。
人が生まれる意味について、二つあると仮定する。
一つは、純粋に生を表現すること。
呼吸をして、景色に触れて、人に触れて、食べたり眠ったり、あらゆる感情を体験する。
二つ目は、与えられた役をこなすこと。
仕事でも、家庭でも、趣味でも、思いを伝えたり、発信したりする。
情熱を伝える役、優しさを伝える役、楽しむ役、発見する役、悪役もいる。
全ては光と闇、愛と憎悪の上に成り立っていると考えている。
SNSが生まれた事で、生きる意味を二つとも表現できる人が増えた反面、両方とも表現できずにいる人もいる。
片方だけできていたり、入れ替わったり、どちらかが絶たれたりもする。
SNSで表現している人たちの中には、誤った自分を認識したまま発信している人も多いし、
逆に新しい自分を発見できている人もいる。
コミュニティが点在しながら、繋がったり、膨らんだりして、共通認識からは遠のいていっているかもしれない。
フェイクもたくさん溢れ続けている。
隠蔽もなくならない。
混沌極まる時代で、生きづらい人、救われる人、悪化する人、様々な方向で派生していっている。
原因や理由に驚く事件も、身近になって久しい。
同時に、奇跡の共有も増えていると感じる。

便利なサービスや、与えられたコンテンツで楽しく暮らすのもいいと思う。
生きている間に、大規模で長期的な通信障害が起こらなければ、静かに生を送れるとも思う。死後の世界も、あるのかないのか、はっきりしない間はないとも信じられるし、あるとも信じられる。
私は心配性なので、予防線を張りたくなる。
死後の世界がもしあって、死んだ後に、生前振り返りビデオ鑑賞会があって、超時間無駄にした!となりたくない。(生き急ぐつもりはないのでのんびり生きているが)
人は世界の事・モノに意味付けする生き物なのに、人生や生死に意味がないと思うのも不自然だ。私的には、起きている現実の方に意味はなく、自分の内的世界に真実があると考えている。
いずれにしても、あるかないかわからない事に関しては、とりあえずあると仮定して生きるのがベストだと思っている。

人生の見通しは、透明な方がいい。
それには本質的な選択が欠かせない。
本質的な選択は、生活に追われたり、人生に迷いや疲れがあると難しくなる。
このままでいいのだろうか、と感じた時には、立ち止まり、視点を変える必要がある。
同じ視点では、同じ結果を生むから。
心が騒がしいと、いつまでたってもその視点から抜け出せないので、鎮める必要がある。
心が重いままでも、それに囚われたまま思考は進むので、変化は訪れない。
立ち止まった時には、可能な限り自分に時間を作る必要がある。
現状を変えられない理由がいくつもあるのなら、強制的に時間を作る理由もいくらかは作れる。罪悪感は誰かを傷つけた時以外、持つ必要はない。
普段は演じる程度に留めるのが望ましい。
雑な提案だけれど、病気や怪我に見舞われた事にして、たっぷり時間を作り、寝たり散歩したりする事は、あれこれ自己啓発したり自己改革するより、ずっと大事だと思う。
普段の自分を削ぎ落とす事から始めなければならないから。

周囲の悩みを聞いていると、かつての自分を通して見るからか、本末転倒な人が多い。
悩みが趣味な人は置いとくとして、明らかに改善したがっているのに、同じ事を続けている人には共通して、部屋が散らかっている、水回りが不衛生、運動不足。
寝なければ疲れは取れない、整体や病院に通っているからなんとか保っている、と思い込んでいる。時々のランチやショッピングが癒し。出費がやばい。でも、今やれてない事はしんどいからやれないし、そのためにも、ヒーリングサロンに行こうかな。ヨガでも行ったら何か変わるかな。お金ないけど、年齢的に美容代も削れないし、シフト増やそうかな。結果→シフトキツすぎて欠勤。まじ辛い、、、というループ。
全て過去の私であり、全て間違いである。
やるべき事とやるべきでない事が全て逆で、今ならこんなにもわかるし、当時もなんとなく分かってはいたのに、悩みがぐるぐるしている間は仲間と同じ愚痴を言って、怒られそうな人には口をつぐんでいた。

私は自分を削ぎ落とす事に、時間がかかったわけではない。
行動から変えようとすると時間はかかるけれど、考え方や心が変わると、人は一瞬で変化する。
自分以外の場所に何か求めても、心がゼロになるという事は難しい。
心がゼロになれば、やるべき事がわかるだけでなく、不要なものへの執着も消え、行動する力が湧いてくる。


心をゼロにするための近道

日々の生活や、今の自分の状態を歯車に例えるなら、まずは歯車を一度止める必要がある。
歯車を一旦止めるには、意識的な行動がなければ、事故でもない限り止まることはない。
意識的な行動とは、外的な要素を増やすのではなく、減らすという事。
人の心理には慣性の法則みたいなものがあり、一度動き出したものを止めようという思考にはなりにくいので、軌道修正が必要と判断した場合でも、もっと稼ぐ(副業)、人を雇う(コスト増)、導入する(IT、スクール、セミナー)、別のシステムを利用する(借金・助成・福祉)など、タスクを増やしてしまいがちになる。
正しく修正できるなら問題はないけれど、あやふやな状態のまま取り組んでも、何も得られない場合が多い。

そこまでしなくても、ちゃんと休養したり、予定や仕事量を減らしたり、身近にサポートを求めたりする事で、人って意外とフラットになれる。
あれこれタスクを増やして、ぐるぐると歯車を回転させながら修正しようとする時間と、
一旦止めて歯車を組み替えたり取り除いたりする時間と、どちらが無駄に過ぎるだろうか。前者は物事が拡大するので、修正されたとしても、再びバランスが崩れた時には、さらに大変になる。根本的な部分の変化は後者にしか訪れず、そこからリスタートすれば、過去と同じような展開は消えていく。
程度によるとは思うけれど、可能な限り生活のスピードを緩める、何もしない時間を増やして、尚且つ、それをよしとする心理が大切になる。
例えば、心も体も悲鳴をあげているのならば、すぐに仕事をストップして医療にかかる必要があるし、なんとなくしんどい程度なら、一つか二つ、やっている事をやめてみて、特に問題ないという認識を作ることから始めてもいいと思う。
何が辛いのか、何が不満なのか、何が心配なのか、どうすれば満足か、どうなれば幸せか、それは、なぜか。それは本当か。
何かがなければいけないという状態から、それがなくても大丈夫な自分を知っていく。
それから、じゃあ何をしようかと考えていく。
自分を知るために、世界や人を観察する。
人より長けていなくても、人よりできなくても、何も悪くない。
不安が強ければ、その不安とじっくり向き合って考察をするしかないし、
それも辛ければ、やはり何もせず、それをよしとして、好きなだけ眠ったりのんびりするのがいい。
そんな事で自分の価値は減らないし、見直すために自分を大事にしているという事だから。


過去を認めて感謝する

少しでも変化を感じたら、過去の自分を否定したり責めないことも重要で、それまでの自分も一生懸命だった事、そのおかげで今がある事に感謝して、しっかり別れを告げる。
その後の人生で、かつての自分と似ている人と遭遇した時や、かつての自分と似たような人が誰かに否定されている時、自分がどうあるべきかを誤ってしまう。
苛立ったり、戸惑ったりしないために、過去の自分を認める事が予防になる。
そういった人を助けたり、守ったり、責める人を立ち止まらせることもできる。
実体験を通し、自分と向き合った人の態度や言葉には力があるから。
それが本来の自分であり、過去の自分はその過程だったと理解する時が訪れる。

一度得た答えに、固執する必要もない。
人生はスパイラルのように、上に向かって小さくなり加速していくようなもので、似たような体験を繰り返しながら、ちょっとずつ自身が進化していくのだと思う。
小さくなり、加速していくので、不要なものはどんどん手放さないとならない。
それは物でも、思考でも、習慣でも、変わるたびにアップデートしていくものだから。

今手放しても問題ないか、と考えてしまいがちだけれど、やってみないとわかない事に悩むのも無駄でしかない。
少なくとも、心がゼロなら、以前と違った選択が浮かぶはずなので、失敗してもいいぐらいの気持ちならやった方がいいだろうし、いずれにしても、どんな結果も受け入れる覚悟はいる。
うまくいっても、それが永遠に続くわけでもないという構えだって必要になる。
手放さなければ、どちらの現実も永遠にやってこないし、変わらない自分と過ごす人生になる。
人生つまらないけど、努力するぐらいならこのままでいいと思う人はとても多い気がする。
そんな自分に、ちょっとでも心が曇るなら、本心ではNOと言っているのだと思う。
このままでいい、というのは、これからも自分のYESやNOを無視しますよ、ということだ。
人生は、自分のYES・NOを見つけて知っていく事だと思うし、その1ページ1ページが貴重な財産で、戻ることも書き直すこともできない"やばいノート"なのにも関わらず、雑記帳のように扱って、同じような人と云々言っているのは、私は好きじゃない。
人生は、なんとなく良くなっていったりなんかしないし、全身全霊で挑んだからといって、全て手に入る訳でもない。

年齢にそぐわなくても、世間の価値観から離れても、自分が幸福ならそれでいい。
誰かに押し付けたり、迷惑をかけたり、傷つけないのなら、選択によって得る批判も、受け入れる覚悟があるのなら。

そんなものはないけれど、世間が自分を傷つけるから、そうはできないという人もいる。
いろいろな経験の結果、望むものが変わったのなら、それはそれで、今の自分にしか見えない景色であり、それが尊いことも事実だ。
世間の価値観に合わせようとして苦しんだり、合わせられなくて苦しんだり、結局どちらも苦しいと思っても、苦しみがあるなら、反対の世界もあるということ。
思ったほどみんな幸福じゃなかったり、そこまで自分は不幸じゃなかったり、色んな世界が点在しているのだと認識できた時、そばにいる人、自分自身が味方である限りは"大丈夫"と唱えて、世界を自分なりにいじくってみれば、人生は"大丈夫"になっていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?