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GREEN MIST【短三編・了】



(三)

すぐに塗り替えられていた筈の二人の日常は、倦怠の週を超え続けた。
彼女はどこへ行くとも言わずに出掛け、何日か経つと、手ぶらで帰宅した。
僕はそれまでの自分のリアクションの全てが、
彼女に帰結し、楽な刺激として揶揄していたのだと分かった。
外は肌寒さを越えて、冬の支度を思わせ始めた。

たとえ穏やかでも、ずっとライトだった僕らの関係は、
重苦しい季節に段々と飲み込まれて、まるで往年の恋人同士のような、焦ったいテレビドラマみたくなっていった。
何をしても、化学反応は起きない。

忙しかったというのもある。
高揚しない気圧が続いたせいもある。
けれど本質は、僕らが奏でた理想の形というものが、
一途な感情の薄明によって、それゆえの別離を見たことだった。
僕らはライトな思想に戻れず、一段と深い波へ沈む事もできずに、輪郭を帯びてく予測と、それに蓋をする行為を繰り返した。

この世界では、やがて彼女の色彩は途絶えてしまうだろう。
彼女はそれを探しに行こうとする。
僕はその靴を隠す事をしない。

僕が、無数の声を消したり、灯したりするのも、その中のどこかに、僕らのような瞳がまだあるからだ。

離れがたくなってしまった僕らは、自分たちの生き掛かりや、渇望を握りしめたまま、ここまで歩いてきた自由の終わりに、ただ悲しくなってしまったのだ。
季節が、短くて濃かった夏を貶すように、早い速度で通り過ぎていくのも、忌々しく思えた。

ある夜中、僕はふと、あの星座を眺めに、彼女のアトリエへと忍び込んだ。
部屋はずっと放っておかれて、どのキャンパスも薄い埃を纏っていた。
ここに来るのは、どのくらいぶりか。

今日は珍しく快晴の満月で、アトリエの窓からも見ることができた。
彼女は、また何日間も帰ってきていなかった。
今ではこの絵だけが、僕に優しいような気がしていた。
そして、僕が彼女に与えた拠り所が、何かあっただろうかと考えた。


部屋の隅に置かれている、目指す絵の周辺は、いつもと何かが違っていた。急いで近づき、覗き込むと、
貴重なエナメル色素たちが、キャンパス全体に塗り重ねられていた。
ジェスチュアの痕は、前に見た時よりも一層、際限なく広がっている。
星座は、僕が何度も仮死を繰り返している内に、そっと動かされていた。
移ろうことのなかった僕の空に、彼女は季節を施していた。

それは、変わっていく僕らを示しているようで、寂しい筈なのに、
真新しい色彩は、床や、壁にも飛び散って、鈍い月光を返しながら、捨てきれない僕らの誓いを掻き立てていた。


僕は時間を忘れて、動いた空の、新たな空想に耽っていた。
月の傾きを感じて我に帰ると、とてつもない眠気に襲われた。

僕はアトリエの真ん中に仰向けになり、瞼を閉じた。
深い呼吸を何度も繰り返すと、
やがていつものように、淡いライムグリーンのオーロラを抜け、見慣れた銀河へと近づいていった。

生まれ変わった巨大クジラの背中には、無数の人が乗っていた。
クジラは還ってくるけれど、背中の人たちはどこかへ消えるのだろう。
その中に、いつかの自分もいるのかもしれない。

満天の宇宙を漂いながら、僕は、
眠る体を包んでいる、彼女が創造した空間へと帰るのが、
なぜか嫌だった。
このままずっと、深い眠りの記憶を覚えていたかった。

けれど朝陽は、僕を目覚めさせた。
しんとした部屋の無音が、この世界に、
僕と、僕のやるべき事しか残されていない事を教えていた。
そして、もうどこにも彼女はいないのだと。
なぜそんな事が分かったかというと、
こういう時、人は勝手に涙が溢れて止まらないからだ。

夢の中での漂いを願うよりも先に、
この世界を覚えていたいと思ったのは、僕自身だ。
季節は二つも進んだのに、僕の頭の中では、
いつまでも彼女の飲み残したアイスティが汗をかいている。
灼熱の中で僕は未だに、彼女の瞳の色を数えている。

二人で見ることのなかった虹の色、
その真ん中をすり抜けて、彼女は消えてしまった。
思い出が美しければ、その分痛いものがある。
だけどその痛みは後に、何にも替え難い癒しとなる。
だから僕は、せめて死ぬまで、時計の針を進めるんだ。


いくつもの空に囲まれながら、嗚咽を終えた僕は、
改めて、自分のだと言い張った夜空を見下ろした。
夢のクジラは、確かに無事に旅を終えたようだった。
次の夜もまた誰かを乗せて、どこかへ運ぶ。
次元を越える船を作るなら、
僕はこの怪物を船首像に施すだろう。
他にどんな輝きを持つ神話があろうと、
僕にとっての星座は、夏から秋を駆けていく、
この四角いエナメルの空でかまわない。


何か手に入るものがあるのなら、
残った弾薬を全てかき集めてでも、
世界は戦いを始めるだろう。
静けさは何もない事の証でもある。
もうこの世界には、何もない。


いつか僕も彼女を忘れていく。
極彩色に抱かれて、クジラの夢を泳ぐなら。
彼女またそうだったのだろう。
色のないこの世界で、
たった一人の、僕を愛したからといって。




2023.09.09  ーアトリエの月ー
49個目の空を仕上げたのは、真夜中過ぎだった。
夜明け間近の。

もう、どの塗料も底を突いてしまった。
植物から特別に合成された、色褪せない顔料たちは、
私の感じるままに、自由に織り混ざり、重なり合っていく。
何度塗り重ねても、常に新しい色が浮かび、溢れて、体の奥から込み上げてくる。
いつからか、淡いグリーンを好む様になっていた。
誰かに憧れを抱くとき、私の心は確かに癒やされていく。
どこかの遠い記憶の中で、私に宿った色なのだろう。

自由への入り口は、この世界のどこかにあるらしい。
それは真昼の空だろうか、
それとも、鯨座と満月が重なる夜の虹ならば、
さぞ美しいんだろうと考えた。
あるいは、身を焦がすような、灼熱の水蒸気の中で、
わずかに現れる、刹那の虹だろうか。


部屋の隅にある仮眠用のシーツは、
これまでにない程、色鮮やかに見えた。
いつもと違う時間に消耗したせいで、
久しぶりに、悪夢を見せる妖怪に操られた。
そして、朝の醒めていく感覚と共に、
ある確信が通り抜けていった。
ああ、この夢は、心が壊れてしまった私のいる、
別の世界の記憶なのだと。
私の心は淡くとも、どこかで切り裂かれている自分がいる。
だからこそ、誰かを愛する自分もどこかにいる。

薄暗い遮光と、まだ引きずられる感覚の中で、
彼の存在を確かめようとした。
けど、ここに誰かがいたことはない。
彼、とは誰の事なのだろう。

夢の果ての宇宙は、どこまでも澄んでいて、
まだ観測されない惑星たちが広がっている。
そこにはかつて、誰かが描いた、
未知の星座がひしめき合っている。
私はその色を、この世界に写し取りたい。

虹の数だけ、世界は生まれる。
七色の記憶は、隣り合う光と入り交じる。
ミクロの水滴が触れ合う、ほんの一瞬だけのこと。
その瞬間に触れる事はできないと、私たちは知っている。
私たちもそれと同じくらい、細かな粒子にならない限り。





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