見出し画像

管理会計の言語空間―小林秀雄「本居宣長」の言語観で紐解く


小林秀雄「本居宣長」によれば、日本語の源流、おこりは「欲」ではなく「情」から始まっていたという。そこは言霊が幸はふ国、言詞のめでたさをめで給ふ世界だ。
遡れば、まだ身の回りにあることのほとんどが、自分でコントロールするものでなく与えられたものだった時代―語彙も少なく、言葉の持つ特性に純粋に感動できた時代―に行きつく。当時の言語に対する特別な思いとそこから生まれる言語生活のありかたを想像するとき、日本語のおこりが「意より詞を先とする」のは当然であったのかもしれない。そして最初にこれを見つけたのが、歌を愛する宣長であったことは確かに合点がいく。

ずっと「欲」で構成された、手に余るほどの過剰な言語に溢れ、使い捨てのように言語が入れ替わる世界に生きてきた私に、ここに描かれていた世界は鮮烈なものだった。一方で、そこは、自分とはずいぶん離れた距離にある心地がした。「冠辞考」のように言葉を装飾するなど、それまでの現代の「さかしらな」言語観にどっぷり漬かってきた私には思いもよらないことだった。
 
現代においても「物」に名をつける、という行為は広く行われている。特に新しい技術やサービス、商品が新しい市場を生み出しているビジネスの現場では、それを生み出すプロセス、マネジメントする手法に至るまで、どんどん新しい名が生まれていく。ICT(昔はITと言われていたが)の世界では特にその動きは激しく、毎日のように古い名や意味がどんどん捨てられ、新しい意味や名が生まれ共有される。宣長が「語」の意味より転義、定義より用法を重視した、というのは、実は、この現場にいる者であれば誰でも実感することができる。
ただ、そこで生れてくるのは資本主義の現場、すなわち「欲」が言葉を生み出す場、まさしく「さかしら事」に頭を使い我執渦巻く世界だ。「情」によって言葉が生まれる世界ではない。むろん新しい技術や商品・サービスを発見した感動に浸る瞬間はあるが、その「情」を中心に「名づけ」をすることはない。況や言葉の美しさ、特に装飾を意識して名づけることはありえない。意味の伝わりやすい語感、シンプルでできるだけ短い語数などが考慮されるだけだ。「詞より意を先とする」ことが優先される、乾いた世界に私は生きている。

------------------------------------------------

大学を卒業して以来、いくつもの業界で私はずっと会計畑を歩いてきた。その中で会社ごとの経理財務、特に外部報告会計でなく内部報告会計即ち管理会計のしくみ作りに相当の期間携わってきて気づいた。会計というのはその会社の経営情報のありかたを形作る仕事であり、そこには必ずその会社の歴史、そこから醸成されてくる会社の価値観が色濃く反映されている、ということに。
具体的には、それは「材料費」「交通費」などという勘定科目、製品・商品の名前の付け方、コードの体系、数字の集計ルールなどに立ち現れる。同じ取引でもその取引における各会社の立場やその会社の事業内容によってその情報の処理のされ方が異なるのだ。これは当たり前のようでもあるが、実はきちんと理解しようとすると難解で奥深いものだと思う。
だから、例えば勘定科目の名前が多種多様、つけ方も多岐にわたる。

ただ、これについては、初めて簿記を勉強したときからずっと、非常に不思議に思っていたことでもあった。勘定科目の名前の付け方は、なぜ様態そのものだったり、用途だったりすることがあるのか。なぜそうでなければならないのか。

勘定科目の定義はこうだ。会社の取引による資産・負債・資本の増減、および費用・収益の発生について、その性質をわかりやすく記録するために必要な分類項目の総称をさす。会社を出入りする現金につけられた、見出しのようなものだ、とされる。「見出し」のようなもの、とはずいぶん曖昧な定義である。
 
この曖昧さは、会計処理においても同様に現れる。
例えば、同じものを購入しても、会社が変われば「販管費」になったり「固定資産」になったりする。同じ会社でも卸売業から始まった会社が後からメーカーの機能を持つようになると(例えば工場ができて製品を生産するようになる、など)、部署ごとに言葉の意味が違ってくる。営業部門では人件費や消耗品費であるものが、製造部門では製造原価とされたりする。それが併存する状態は、外部から見ると混乱しているように見えたり、誤解が生じることがあったりする。あるいは、収益モデル上必須の管理項目のはずなのに、オーナーがそれを握って管理対象から外しているために、しっかりした勘定科目の設定や費目や組織に関わるマネジメントのしくみ(コードや評価指標など)が確立されていないこともある。(そしてそれは意図的なものでもあるのだ)

実は、経理財務畑の人間は、この会社ごとに使用される勘定科目の体系を把握する必要がある。その体系には、その会社ごとの収益・費用をどのように把握し、どうコントロールすれば営利目的を果たすことができるかという考え方、いわゆるその会社の収益モデルそのものが表されているからだ。その会社のビジネスモデル、経営戦略が理解できたとき、その会社の勘定科目の体系も自ずと理解できるようになるのだ。
管理会計においては、収益を把握するための厳格なルール作りが必要だ。その一方で、このような一見すると矛盾するような曖昧さも必然的に併せ持っている。このようなことがなぜ起こるのか、長年疑問でもあった。

------------------------------------------------

「本居宣長」第三十二章の以下の箇所を読んだとき、私は、長年の疑問がやっと自分の中で腑に落ちた、と感じた。目から鱗が落ちる、とはこのことだと思った。
 以下引用してみる。

宣長が書写した『論語徴』の全文は、『詩之用』は、『興之功』『観之功』の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、『詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ』という考え、徂徠の註解によれば、『凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス』という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。
徂徠が、『引譬連類』という興の古註を是とする時に、考えているのは、言わば、言語の本能としての、比喩の働きであって、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。言葉の意味は、『其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテ已マズ』と、彼は言っているが、そういう言語の意味の発展の動力として、本来、言語に備っている比喩の働きが考えられている。この働きは、――『典常ヲ為サズ、類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、愈出デテ愈新タナリ。辟ヘバ繭ノ緒ヲ抽クガ如ク、諸ヲ燧ノ薪ニ傅クニ比ス』と徂徠は言っている。『観之功』の方も同様で、『得失ヲ考見スル』というような、知的な意味には取られていないので、人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能と受取られている。物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、『黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ』、『観トハ是ナリ』とある。
(中略)
言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観に基いて、徂徠が、興観の功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、或は、これに耳を傾ける者に、如くものはなかろう。この事を念頭に置いて、興観の功の説明を締め括る、徂徠の言葉を読むべきだ、と私は思う。」

(「本居宣長」第三十二章 新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.12-14)

------------------------------------------------

会計は「勘定科目」「金額」という言葉を使って企業の取引状況を表現する手段だ。言わば勘定科目がここでいう「語」、そして企業取引に伴う金の動きやその勢いは「用法」に当たる。「用法」との検証を経て「語」が自ずから定まってくることに言語の本質があるのであり、会計の言語もコミュニケーションの試行錯誤の中で、実態を最も共有しやすい形(=モデル)に収斂される。
従って、「語」としての勘定科目の体系や個々の名前の意味は、企業の組織や取引、これらの歴史的経緯に醸成された価値観、企業という言語共同体の価値観で定義されていくから各々違う。勘定科目の定義はまさしく「用法」のみを重視し、「展転シテ已マ」ない。
「欲」が言葉を生み出す場であっても、言語の普遍的な性質においては共通する。

「言語の問題を扱うのに、宣長は、私達に使われる言語という『物』に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の働きを、内から掴もうとする。」

(第二十四章 同27集p.272)


上記の小林秀雄の文章は、もちろん経営について考察したものではない。しかし、企業の実態を言語や数値という記号で把握しようとする会計の世界においても、言語の本(もと)を辿り、普遍性を説く上記の小林秀雄の文章は非常に示唆に富んでいる、と私は感じる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?