映画の自己言及性について 『リテイク論』までの道のり?
ぼくは、映画『リテイク』について、「自己言及性」の観点から何か言えないだろうかと考えている。『リテイク』は観てもらえればわかるが、ループものの作品である。だから、主人公は何度もその出来事の中に放り出される。あるいは、自分で選んでもう一度戻っている。
『リテイク』の中では、高校生たちがひと夏の間に映画をつくる、その過程を追っている。もちろんフィクションであるが、言いたいことは、つまり、リテイクは「映画内映画」の構造を持っているということだ。この「映画内映画」という構造自体、すでに自己言及的である。なぜなら、映画を謳っている作品の中で映画について描くのだから。ここにはどうしたって、監督自身の映画観や、その時代の映画作りについての描写が入り込んでくる。そのうえ、この『リテイク』という映画は、ループものでもある。わかるだろうか。『リテイク』という映画自体が持つ自己言及性は、なぜか映画の中で2つに分裂している。ふつうは、というか、従来の「映画内映画」の構造では、そこに「ループ」というまた違った自己言及的要素を盛り込まない。もう十分やりたいことはできるからだ。しかし、『リテイク』という映画は、そこに「ループ」を入れ込むことで、全く新しい様相を映画に浮かび上がらせることに成功している(とぼくは思っている)。
ただ、現時点で、ぼくはそのことについて論じるには明らかに力不足だ。いつか、近いうちに、この映画『リテイク』の「リテイク論」なるものを完成させたいが、いまはできない。だから、現時点で書けることを全力で書くという方向にいったん切り替える。
この文章のタイトルは、「映画の『自己言及性』について」という。先ほども述べた通り、ぼくが論じたいと思っている映画『リテイク』はその内部に「自己言及性」を2つ宿している。それも、別に新しくもない方法のものを。「映画内映画」と「ループ」を扱った映画はたくさんある。しかし、この両方を同時に扱った映画は、この『リテイク』以外だと、ぼくの知る限り中野さん(映画『リテイク』の監督)に教えてもらった2つだけで、しかもそれもあまり徹底した作りではないと聞いた。たとえば、「映画内映画」だし、「ループ」もするが、一度しか「ループ」しない、とか。「映画内映画」は映画についてのメタフィクションだが、「ループ」はただのメタフィクションだ。前者はそもそも「映画」と謳った作品でなければ成立しないメタフィクションだが、後者はアニメなどでも頻繁に使われるように、どの媒体でも成立するメタフィクションだ。この2つの微妙な差異をもとに、きちんとぶつける、あるいは分裂させるということを、いままでの作品はやっていない。だから作った、と中野さんは言っていた(こんな言い方はしていなかったけれど)。その点だけを見ても面白い作品なのだ。
しかし、この映画の「自己言及性」は、そもそも映画そのものに宿っているのかもしれない。そんなことを書こうと思っている。まとまらないかもしれないが、読んでくれると嬉しい。
映画『リテイク』の監督の中野さんは、東京造形大学出身だ。中野さんが在学のとき、ちょうど諏訪敦彦が学長だったそうだ(もしくは辞めてすぐかな?)。中野さんは、諏訪敦彦に多大な影響を受けていると思う。東京造形大学の教育は特殊で、まっすぐだ。諏訪敦彦の文章を読んでいると、そのまっすぐさになんともいえない清々しさを感じる。そして、その文章の中に、映画について考えるヒントがあった。以下、引用する文章は、諏訪敦彦が生涯の仕事を振り返りつつ、自分の映画について言及している文章の一部である。ここでは、映画『2/デュオ』について振り返りつつ書かれたものを引用している。諏訪敦彦は、脚本にセリフをつけずに俳優に即興で演じさせる監督として有名である。その撮影方法自体、ある種成り行きで、事後的にその意味が見出されるような経緯を描いていて興味深い。さて、以下は映画の制度についての文章だ。
「今にして思うと、私がデジタル世代ではなく、フィルム時代に映画を撮り始めたことが、私の映画のフォルムの成立に作用していると感じる。デジタル以上にフィルムには撮影時間の限界がある。400フィートの長尺フィルムを装填してもせいぜい10分少々の持続時間しかないことを、俳優もスタッフも知っている。いったんカメラが回り始めれば、現場にはフィルムが終了してしまうまでのカウントダウンの意識が生まれる。俳優たちはどこかで、この時間の制約に急き立てられてゆく。即興演技では、その芝居がどのように終わるのかが決定されていないため、時間経過とともにそれがどう変化するかも予測できない。いつ終わるのかもわからない。しかし、フィルムの終わりは必ず訪れる。その緊張の中で、撮影が進行してゆく。フィルムが回っている間、製作資金をどんどん消費しているという現実も、皆の意識に大きく作用している。・・・現実に終わりはないが、映画には終わりがある。始まって終わる。それは映画の制度である。俳優たちの終わりの見えない演技の闘争は、やがて迫り来る終わり=映画の制度との闘争となる。」(1)
ここで興味深いのは、映画の現場では、フィルムの制限時間があるということだ。もういまでは当たり前のことではないが、ひと昔まえはフィルム撮影で、それを一度に回す時間には限りがあった。いまはデジタルで何時間でも回すことができる。だから時間を意識することがないとは思わないが、ぼくが面白いと思うのは、諏訪敦彦の現場では、そのとき、フィルムの制限時間に意識がいっていたということだ。「現実には終わりはないが、映画には終わりがある」というのはそのままフィルムの話なのだ。そしてそれを、諏訪敦彦は「映画の制度」と捉えている。映画は必ず終わる。諏訪敦彦は、『2/デュオ』の撮影が終わらなければ、「「・・・どうしてこの映画が完成しなかったのかについてみんなで話し合う様子を撮影して終了しよう」と私はそう覚悟していた」(2)と言っている。演技は即興だから、次の展開がどうなるか読めない。だから、監督含め現場のスタッフ・キャスト全員がこの映画がどこに着地するかわからない。映画は完成しないかもしれない。でも映画は終わる。それを、フィルム、「映画の制度」などといった言葉で表現している。映画は完成しなくても終わるというのは、確かに「映画の制度」=フィルムの特徴だ。そこに視座を置くとすれば、やはり時間について考えざるを得ない。でもこれは袋小路な気がする。本当に映画を終わらせるのはフィルムなのだろうか。そのとき、カットをかけたのは誰だろうか。カメラの後ろには誰がいて、カメラの前には誰がいたのか。
ぼくは、フィルムが「映画の制度」だとは思わない。もしかしたら、この諏訪敦彦の話には、後ろ側に理論的な話が盛り沢山なのかもしれない。でも、ぼくはそこに踏み込めない。なぜなら、その議論を知らないからだ。勉強不足である。それでも、少し考えてみたい。ぼくは映画は時間だけじゃないと思う。時間=フィルム=「映画の制度」を意識して諏訪敦彦含め俳優たちはああいったスタイルで撮影することになったのだろうか。それも、それだけではないと思う。
写真家の大山顕は、新海誠監督の映画『君の名は。』を観て、強烈な違和感を持ったという。その違和感とは、レンズのフレアの表現であり、タイムラプスの表現である。なぜこのような表現をするのかわからないという。
『君の名は。』はアニメーション映画だ。にも関わらず、レンズのフレアの表現が入っている。アニメは絵だ。だから、この表現は、わざわざカメラのレンズを通した光のフレアを描き込むということをしている。レンズがないのに、レンズを描いているということだ。
タイムラプスの表現もそうである。タイムラプスは、ふつう、カメラを使って行う。しかし、それをわざわざアニメーションでやっている。つまり、これは、何時間もの風景描写としてのアニメ=絵を早送りしているわけではなく、早送りの映像に見える絵をわざわざ演出して描いているということになる。カメラがないのに、カメラを描いている。
本来カメラで行う表現を、アニメ=絵に落とし込む。大山顕は、そのことをカメラの幽霊化と呼ぶ。どういうことだろうか。
カメラがないのに、カメラが呼び出される。このことを述べる前に、大山顕が『新写真論』の中で述べていることをここで一度経由したい。
『新写真論』のなかの「幽霊化するカメラ」という章にこんなことが書いてある。ある遊びをしている子どもたちが、全員で何人いるかを数える。しかし、何回数えても1人多い。このとき、数える人は、数えられる自分と数えている自分を数えてしまっている。だから1人多くなるという。この奇妙な感覚が、集合写真のときに現れる。集合写真は全員で撮らなければならない。しかし、誰かがシャッターを切らなければならない。そのシャッターを切る人物が写真家であり、1人多い子どもである。いまなら、カメラのセルフタイマー機能を使えばそんなこと簡単にできるだろう。しかし、やはり、集合写真のときの写真家は、基本的にそのセルフタイマー機能と変わらない。この意味で、集合写真は、写真家という「幽霊」を呼び出しているということができる。写真を撮る人と撮られる人がいる場合、基本的に撮る人は「幽霊」だ。そこに撮る人の作為性などが宿る場合は別だが、写真はそもそもそのためだけにあるものではない。カメラ自体は撮影者の思うように物事を見ていない。当たり前のことである。しかし、写真の鑑賞者はその写真に撮影者の意図を読み込む。このように、近代のカメラを前にした人々の感覚は、「幽霊化した写真家」と、「鑑賞者に事後的に見出される写真家」の2つに分類できる。『ハゲワシと少女』という写真でピューリッツァー賞を受賞したケビン・カーターは、その写真に対して、写真を撮る前に少女を助けるべきではないのかと多くの批判を受けた。それが原因でかはわからないが、程なくして自殺した。彼は、2つの写真家としての分類に引き裂かれたのかもしれない。大山顕は、ケビン・カーターに対しての先ほどの批判に対し、このように述べている。
「そのような批判に対してはかならず、現場に介入するよりも、まず報道することこそがカメラマンの使命である、という主張がなされる。正しいかどうかは別として、これはまさにカメラマンは「幽霊」として存在すべき、という主張だろう。しかし、自身が幽霊に徹することができなくなったとき、あるいは周囲から「人間」であることを要請されたとき、カメラマンは深刻なジレンマに陥る。カーターはピューリッツァー賞受賞後ほどなくして自殺した。彼が「幽霊」であり続けるにはそうするよりほかなかったとぼくには思われる。もしかしたら、現在のカメラマンは、少女を救っている場面を自撮りするかもしれない。」(3)
最後の文章は興味深い。ぼくが先ほど行った2つの分類で考えれば、「少女を救っている場面を自撮り」して映っている写真家は、果たして誰なのだろうか?そのカメラの後ろには誰もいない。カメラの前にだけ、写真家はいるのである。大山顕はこのことにも次のように述べている。
「長年にわたってまとわりついてきた、この、撮影者を「見る者」として世界から切り離す、という問題は、自撮りの登場であっけなく無効になってしまった。ぼくがずっと自撮りに対して感じている、ぬぐいきれない奇妙さはここにある。自撮りは写真家を除霊してしまったのだ。」(4)
しかし、ぼくは、このことにも少し違和感を感じている。自撮りによって「幽霊化した写真家」が除霊されたとしよう。たしかにそうかもしれない。しかし、ぼくの分類でいえば、鑑賞者から事後的に見出される「鑑賞者に事後的に見出される写真家」はいなくならないのではないか?つまり、先ほどの「少女を救っている場面を自撮りする」ことを実際にしたとしても、「撮影者を「見る者」として世界から切り離す」ということは無効にはならないのではないだろうか。
先述した新海誠の『君の名は。』でのレンズのフレアの描写は、大山顕の言葉で言えば「カメラの幽霊化」ということになる。大山顕は、次のように述べる。
「『君の名は。』のこの描写は、物語の世界にはないことになっているカメラの存在をあえて示す。もちろん、いわゆる「第四の壁の破れ」を意図的に行った演出ではなく、単に「見た目にキラキラしてそれっぽい」のを目指しただけだろう。」(5)
「見た目にキラキラしてそれっぽい」とはなかなか痛烈だが、ぼくもそうだと思う。ただ、一方で、大山顕はチェルノブイリに観光に行った際、「ぼくは何度も「どうしてぼくはこの人たちではないのだろう」(6)と、現地の事故によって立ち入り禁止になった場所を故郷とし、自分の意思でそこへ戻り暮らしている自主帰還者たち(サマショール)のことを想ったと、そう言い、次のように述べている。
「しかし、とにかくぼくは確かにあそこにいたのだ。今見ると、うっとうしく思ったレンズの水滴こそその証明のように思える。」(7)
大山顕は、このとき、事後的に写真家の存在をその写真から見ていないだろうか。つまり、その写真を撮った写真家=自分を思い出すために、「レンズの水滴」が機能していないだろうか。
ここにぼくは「自己言及性」を見る。大山顕は、「カメラの幽霊化」などと言い、「幽霊化した写真家」は除霊されたと言うが、そもそも写真家とカメラは不可分なものであることを忘れている。あえてそういった風に書いているのはわかっているが、ここではそこを詰めていく。そもそも『新写真論』は「顔」がテーマだから、「写真家」そのものにフォーカスを当てているとは言い難い。が、「写真家」をまったく扱っていないわけでもない。だから、この『新写真論』を使って思考を促すのも悪くないだろう。
話が横道に逸れたが、要するにぼくは、その「カメラの幽霊化」にこそ、「鑑賞者に事後的に見出される写真家」が宿ると思っている。「幽霊化した写真家」ではなく。これは、先ほどの「少女を救っている場面を自撮りする」ことを実際にしたとしても、「撮影者を「見る者」として世界から切り離す」ということは無効にはならないのではないか、という議論とまっすぐに繋がっている。つまり、「少女を救っている場面を自撮り」しても、その写真の鑑賞者は、事後的に「鑑賞者に事後的に見出される写真家」を見出すのだ。そして、その場合の写真家は自撮りをした「少女を救おうとしている写真家」なのであって、結局、写真家は、カメラの前に出ても、「それはパフォーマンスだろう」と言われ、セルフタイマーのカメラを鑑賞者に思い起こさせ、「幽霊化した写真家」がまた立ち現れてくるのを感じる。この問題はループする。終わりがない。『君の名は。』のレンズのフレアの描写で考えてみると、そのレンズのフレアは描き込まれたものであって、いわゆる「カメラで撮っている」という演出である。そして、なぜこれが描き込まれたかというと、それが「キラキラしたそれっぽいもの」を求めたからか否かは関係なく、アニメは描き込まなければそれが入らないので、その「作者の意図」がそこに反映されているということになる。ぼくが言いたいのは、この「作者の意図」の部分だ。自撮りも結局は「作者の意図」が透けて見える。『君の名は。』のあざとすぎるほど綺麗なフレアの描写にも、それと同じような感覚をぼくは覚える。つまり、大山顕の言う「幽霊化するカメラ」は、それ自体が自撮りなのである。したがって、カメラは幽霊化していない。なぜなら、「写真家」=カメラマン=「作者の意図」を事後的に見出す鑑賞者の問題は消え去っていないからだ。
そもそも、大山顕の話では、集合写真のときに「幽霊化した写真家」=セルフタイマー機能が呼び出される、ということになっていた。しかし、「幽霊化するカメラ」=アニメのフレアの描写は、それ自体に呼び出される必然性がない。「幽霊化するカメラ」は、ぼくの写真家の2つの分類であるところの、「幽霊化した写真家」と「鑑賞者に事後的に見出される写真家」の2つのうちだと、後者に該当するものだ。そして、この後者の「鑑賞者に事後的に見出される写真家」は、「作者の意図」とイコールで結ばれている。いまさらだが、さっきからぼくが言っている「作者の意図」というのは、「鑑賞者によって見出されるもの」だ。だから、作者本人がどう思おうと関係がない。もっと言えば、作者本人すらも、後から「作者の意図」を見出すような、そういうことを言っている。要するに、「幽霊化するカメラ」は、この話のうえではそもそもカメラではない。大山顕の区分でいけば、「幽霊化するカメラ」という言葉は不適切だ。なぜなら、それが呼び出される必然性がないから。だから「鑑賞者に事後的に見出される写真家」の分類に振りわけられる。なぜなら、そこに「作者の意図」が見えるからだ。
自撮りは、「撮る私を見る私を見られる」というふうに言えるかもしれない。そこに鑑賞者の視点が付きまとう限り、「鑑賞者に事後的に見出される写真家」は常に生み出され、見出される。そこに対策のしようはない。
この自撮りの自己言及性は、SNSの使い方に似ている。人は、「いいね」することによって「いいね」を求めている。つまり、欲望することのために自分の欲望の外ヅラを変化させる。いまは、スマホで自撮りするとき、勝手に肌が滑らかになったり、顔が小さくなったりする機能がある。データ的にこれが「良いとされている顔」に、自動的に、あるいはあらかじめカテゴライズされたカテゴリーの中から任意に選ぶ、という形で自撮りする。これが、「良いとされている顔」=外ヅラ=「「いいね」されそうな「いいね」をすること」によって「いいね」を求める、ということの本質である。誰も「良いとされている顔」一般など見えていないのに、そこに向かって「いいね」は結晶化され、かつ、「いいね」が結晶化されたところに「良いとされている顔」がぼんやりと、それこそ幽霊のように浮かび上がってくるのかもしれない。
少し加えると、たとえば、「自分の撮りたいものを撮ればいい」「自分のいいねしたいものをすればいい」と思う人もいるかもしれない。けれども、それは話が変わっている。なぜなら、ぼくがいま話しているのは、「あなたの撮りたいものはこれだったんだよ」と事後的に言われ続けるのが写真家の運命だということだからだ。「少女を救っている場面を自撮り」しても、そこに「作者の意図」が透けて見えるように、そのことに対策のしようはない。かといって、「幽霊化した写真家」として徹することもままならない。
ここまでの話を整理すると、ぼくは写真家を2つに分類した。「幽霊化した写真家」と「鑑賞者に事後的に見出される写真家」である。前者は撮影時に必然的に呼び出される写真家、つまり、撮影される側から呼び出される写真家で、後者は鑑賞時に必然的に呼び出される写真家、つまり、鑑賞者の側から呼び出される写真家である。面白いのは、撮る側が主体的にあるのではなく、ある種受動的に、必然性を持って呼び出される対象となっていることだ。そして、大山顕の「幽霊化するカメラ」=『君の名は。』のレンズのフレアの描き込みは、「幽霊化するカメラ」という言葉はこの場合は適切ではなく、ただ単に「作者の意図」として言われるべきだ、ということ。だから、この「作者の意図」は鑑賞時に必然的に呼び出される写真家=「鑑賞者に事後的に見出される写真家」と同じなのだ。
ここまで整理して、ぼくが言いたいことの結論はこうである。
まず、自撮りは「幽霊化した写真家」を除霊する。しかし、「鑑賞者に事後的に見出される写真家」は消えない。なぜなら、その自撮りに鑑賞者は「作者の意図」を感じるからだ。だから、あざとさや不自然さを感じたりするし、逆にすごく良かったり感動したりする。ただ、これは結局自撮りだ。ぼくの整理通り「幽霊化した写真家」=セルフタイマー機能のカメラなのだとしたら、自撮りはこれと変わらない。自分でセット、演出して、撮るからだ。自撮り以外のなにものでもない。だから、カメラがあって、それで撮影する限り、「幽霊化した写真家」は消えない。でも、幽霊に徹することはできない。かといって、「鑑賞者に事後的に見出される写真家」であることもそうである。やはりここで写真家自身は2つの分類の前で引き裂かれる。
また、「幽霊化した写真家」=セルフタイマーなのだとしたら、そこには「写真撮影の欲望」だけが残っているということになる。ここで、先ほどまでの自撮りによる循環を通して、「写真撮影の欲望」だけが蒸留され残っていることがわかる。写真撮影は、自撮りを通して、カメラ本体に宿る欲望を言い当てる。デカルトは、死んだ牛の目玉をくり抜いて、そこに映る像を見た。その死んだ牛の目玉に映る像を、その死んだ牛は「見ている」のか?その目玉はその像を「見ている」のか?否、「見ていない」。こうやって、本当は「見ている」であろう主体を還元することで、デカルトの哲学は出来上がる。主体はどこにあるのか。それをあぶり出す装置としてのカメラ。目玉。レンズ。
しかし、人の「見たかった」ものは変わってゆく。簡単なことだが、カメラに映るものは、撮影者の思い通りに動いているわけではない。むしろ思い通りに撮れない。そのことによって、見る者の「見たかったもの」を変えてゆく。「本当はこれが見たかったんじゃないか?」というように。
レンズは、「見る者」と「見られる者」を隔てる膜だ。ぼくらはその膜=レンズを通してしか像を受け取ることができない。そして、その膜=レンズは、決してぼくではない。ぼくはその膜=レンズを「見る者」である。これはスクリーンショットと同じ構造だ。
ここで、カメラで行う自撮りと、スマホで行う自撮りとの間に亀裂が走る。ぼくがいま行っている考察は、カメラで行う自撮りである。だから、最初に諏訪敦彦の文章を引用した。
まとめよう。諏訪敦彦は、時間=フィルム=「映画の制度」とした。これはある意味間違いではないと思う。ただ、レンズの問題を忘れている。そのレンズ=目玉に映る像を「見る者」。「これが私」という感覚。レンズに映るフレア、目玉に映る像、次にどうなるかわからない即興の演技は、すべて「カメラ」(ここでいうカメラは「見る者」、レンズ、「見られる者」をすべて包含する「映る像自体」のことをいっている)というものがあるから「これが私」という感覚が成立する。
フィルムは複製可能である。記憶もいつでも書き換わる。しかし、レンズを通ったこと、この目玉を通ったことは、カメラという像の出力装置があることで徹底化される。
ぼくは、もう、カメラで撮ること自体が自撮りだと言っている。しかし、「あらゆる映画は、映画制作についてのドキュメンタリー」であるという金言もある。ぼくはその立場に、原理的に立ちたい。
したがって、映画は時間だけではないし、「見る者」と「見られる者」を隔てるものでもない。映画は映画について絶えず自己言及している。
このことは、スマホの自撮りとカメラで撮る映画とを対比させることで可能になる話だった。そして、これが、映画の持つ限界でもあると考えている。これが映画の制度だ。映画は常に映画制作のドキュメンタリーでしかあり得ない。ただし、カメラを使った場合には。
いまは、『アバター』が筆頭だが、カメラ撮影というよりも、「スキャン」に近い制作方法が知られている。この「スキャン」による映画制作は、そもそもどう考えればいいか。
たとえば、『2/デュオ』を『アバター』のように「スキャン」して、『アバター』の住民が日本の男女カップルの映画をつくるとしよう。そこに像を切り結ぶレンズがどこにあるのか、ぼくにはわからない。逆にいえば、これは自撮りではなくなるということだ。「スキャン」には前とか後ろとかの概念がない。目玉がない。だから、目玉を「見る私」もいない。カメラがないのだ。そしてスマホでもない。とにかくレンズ=目玉がない。そもそも「スキャン」とは「見る」ことではない気がする。
だいたい、書けたかな。いろいろと論理的に組み立てたつもりだが、結局は「カメラ」中心主義的に考えている。そしてその限界も、ある程度は言い当てられている気もしている。
ただ、これは、本当にカメラ中心主義的に考えたので、『リテイク論』とは様相を異にしている。『リテイク』は映画だが映画の限界も理解しているし、なおかつ映画の持つカメラ中心主義の牙城を切り崩す実験的な試みも行われている。それをいつか書ければと思う。
引用
(1)『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために ー 製作・教育・批評』p.40 諏訪敦彦 フィルムアート社
(2)『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために ー 製作・教育・批評』p.38 諏訪敦彦 フィルムアート社
(3)『新写真論 スマホと顔』p.84 大山顕 株式会社ゲンロン
(4)『新写真論 スマホと顔』p.84 大山顕 株式会社ゲンロン
(5)『新写真論 スマホと顔』p.84 大山顕 株式会社ゲンロン
(6)『新写真論 スマホと顔』p.87 大山顕 株式会社ゲンロン
(7)『新写真論 スマホと顔』p.88 大山顕 株式会社ゲンロン
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