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(ほぼ)100年前の世界旅行 再び太平洋〜サンフランシスコまで 6/11-16

6月11日、ほぼ半日のホノルル滞在ののち、真一は再びTaft号に乗り込み、さらに東へ太平洋航路をサンフランシスコへと進みます。ホノルルで降りた人、乗り込んだ人など、shipmateにも変化がありました。この期間の日記には人名が多く出てきます。

金谷ホテルのお客様たち

・アメリカのGillespie夫妻  
関東大震災発生時に金谷ホテルに滞在していました。この旅では横浜からサンフランシスコまでずっと一緒でした。
・デンマークの麻貿易商 Weyhe夫妻
ホノルルからのshipmate。3年前の5月に金谷ホテルに宿泊していました。戦争前の商売はドイツ語とフランス語が主流だったが今は英語ができないとだめ、為替が下がって困るなどの嘆きを聞かされます。
・オランダのWiley夫妻 
この年の4月、金谷ホテルに4週間宿泊。ホノルルから乗船してきました。

L.A. Osborne氏からは、ニューヨーク郊外の別荘への招待を受けました。音楽家のMcCall氏のインドネシアの自宅をいつか訪ねるとも約束しました。
3年前に金谷ホテルに宿泊したという人からは、日光駅まで付いてきたポーターにチップを渡そうとしたら、すでに金谷ホテルでチップを渡しておられるから自分は受け取れない、自分も金谷ホテルの使用人だから再度の心づけは不要だと固辞した態度は他では見たことがないと賞賛された、と日記に記しています。

旧知の同業者たち

・カリフォルニア州リバーサイドのMission InnのオーナーMiller氏夫妻
彼らはちょうど日本に向かっており、真一は旅行中で会えないことをなんとか伝えようと苦心しています。最初の電信を乗っていると思った船に送りましたが乗っておらず不達、ホノルルのホテルで見かけたが挨拶できず、メッセージを残し、ようやく先方から「日本で会えなくて残念」との電信を受けることができました。弟正造にも手紙で「よろしく伝えてほしい」と念押ししています。この頃はすでに無線電信が普及していたのですね。Miller夫妻は、正造の妻・孝子(箱根富士屋ホテル創業者山口仙之助の長女。英語、フランス語に堪能だったそう。)の友人であるMrs. Hutchingsの両親で、1916年から17年にかけて真一が正造夫妻と出かけたアメリカ旅行の際に、彼らが経営するホテルMission Innを訪ね、家族総出で暖かく迎えられて過ごした恩返しが日本で直接できないことが残念だったからでしょう。義理がたく、律儀な真一の人柄がうかがえます。Mission Inn の美しい建物は今も大切に残されています。

・サンフランシスコ Palace Hotel  H. E. Manwaring氏
真一は氏が横浜グランドホテルに勤務していた当時からの知り合いです。"Radiograhed to Manwaring to save any corner"と日記に書いているのは、サンフランシスコに行くことはすでに連絡済みだけど、念を入れて、というような意味でしょうか。慎重な性格ですね。

6月1日からの16日間の船旅を、真一は以下のように総括しています。

Oh sixteen days' imprisonment life provided with luxurious food, entertainment and every possible means of richman's life was not a penny [sic] worth.  Finished packing & everything ready for tomorrow.

金谷真一旅行記 1925年6月15日

さすがに退屈していたのでしょうか。うれしそうです。
6月16日、いよいよサンフランシスコから、アメリカの旅が始まります。


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