あるホテリエの終戦の日
私の祖父、のちに日光金谷ホテル3代目社長となった金谷正夫は、軍の要請により、昭和17年(1942)から日本占領下の上海バンド地区にあるパレスホテルの管理のため上海に赴任していました。この頃、日本の多くのホテルが同様に中国や南方のホテルの運営を委託され、大勢の人を日本から送り、 従来の経営陣を追い出す体制をとった例もありました。帝国ホテルはバンコクへ、軽井沢万平ホテルはジャワ島へ、シンガポールのラッフルズホテルは「昭南旅館」となりました。各ホテルは大東亜共栄圏への事業拡大の好機と捉えていたかもしれませんが、日本のホテル同士がどこを担当するかを巡って争うような状況を好まなかった当時の社長・金谷眞一は、要請を断る決断をしていました。そこに名乗りをあげたのが正夫。眞一の長女・花子の夫で、九州大学工学部卒の技術者サラリーマン。それまでも金谷ホテルや関連の会社の経営に関わってきましたが、50歳を前に会社を辞め、上海に行くことを志願したのです。
ちょうど眞一の体調がすぐれないこともあり、正夫1人を派遣することで軍や興亜院、鉄道省観光局などの了解を得ました。正夫にはいよいよ自分が役に立たねばという責任感もあったことでしょう。現地海軍武官府は、同盟国であるドイツやイタリア人の客も多いパレスホテルは業績も良いため、その状態を変化させずに占領する方針だったことも幸いでした。占領布告の手交は軍服で行ったのち、すぐに平服に着替えて細かな手続きをとった、という話を担当の海軍中佐から聞き、正夫は感心しました。
その方針のもと上海に1人乗り込んだ祖父。英語のほか、ドイツ語もある程度話せたようです。パレスホテルの幹部20名ほどを前にした最初の挨拶を「マイ・フレンズ」と切り出し総支配人の業務をスタートしました。ここから約1年、国民政府派遣の管理人に業務を引き継ぐまで、スイス人のマテイ支配人以下、11カ国出身の従業員の面々の協力を得て、祖父は業務を遂行し帰国しました。国民政府に移管されたホテルには、日章旗に代えて青天白日旗を掲げるのですが、従業員たちは「あなたが支配人室にいる間はそんな気にはなれない」と、正夫が帰国するまで新しい旗を掲げませんでした。
しかし今度は国民政府から管理の要請を受け、再び昭和18年にパレスホテルに赴任。その人選には従業員たちの要望も加味されたかもしれません。
そして昭和20(1945)年8月9日夜、祖父は租界の友人(おそらく外国人と思われます)から「平和だ、平和だ」と興奮した声の電話を受けます。この日は長崎に原爆が投下された日ですが、それを祖父は知りませんでした。まだ正式な発表もないのに租界のニュースをホテルの仲間に伝えることは、人心がどう動くか危険であると判断し、注意深く、張り詰めた数日間を過ごしたのち、8月15日の玉音放送を聞いたのでした。
日本人への周囲の冷ややかな視線を避け1人で部屋にいると、身の回りの世話をしてくれていた中国人のボーイが静かにやってきて「心配しないでください。私がお世話します。お食事を部屋でなさるならお持ちします。」と祖父に声をかけてくれました。人の厚意が深く心に染みる時、「苦しみに似た心臓の刺激があることをこの時ほど痛切に感じたことはない」と書いています。
祖父はホテルにとどまり、数日後日課の散歩で別のホテルに友人を訪ねた際「日本人は6時間以内に荷物をまとめて退去せよ」との命令がでます。急いでパレスホテルに戻ったところ知り合いの英国人婦人が「ここにぐずぐずしていては大変。早く日本人がいる地区に移った方がよい。ちょうど私の自動車がある。英国国旗が立ててあるからできるだけ早くここを出なさい」と。祖父は手早く身の回りの品だけをもち、この婦人の車で出発しました。
日本租界までの道では、蒋介石軍の歩哨がすべての車を取り調べていましたが、英国国旗のおかげで無事日本租界の友人宅に身を寄せることができました。
日本租界に移ってからも、略奪や襲撃をおそれ、緊張の日々が続きます。そんなある日、「米軍があなたを探している」と知らされます。戦争協力者であることは確かだな、と覚悟を決めた祖父が玄関に出て行くと...。は次回に。
以上は、昭和19年出版の「上海記」、昭和35年出版の「わが こころのホテル」という祖父の手記から抜粋した終戦の記録です。立場を超えた信頼や思いやりの尊さが、胸に迫ります。
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