(ほぼ)100年前の世界旅行 6/16−18サンフランシスコ
サンフランシスコといえば、ゴールデンゲートブリッジ!ですが、真一が旅していた1925年にまだありませんでした。1916−17年のアメリカ旅行でも訪れたこの街を再訪した真一は、日本にも大型の建物が増えたので当時ほどは驚かないし、迷子にもならない、ただ、自動車の数の多さに驚いた、と書いています。さあ、何をしましょうか。
友人との再会
入国審査を終えるとタクシーを飛ばしてPalace Hotelへ。支配人のマンワリング氏には前もって到着を知らせていて、真一は再会を楽しみにしていた様子ですが、あいにく東部へ旅行に行っていて留守です。「横浜時代から一緒にいる秘書」が部屋に案内してくれました。
Palace Hotelは1875年創業、750室、毎日2000人がいきかう、都会の大ホテルです。その支配人マンワリング氏は、「日本ホテル略史」(運輸省 1947)によれば、
・1895年(明治28) 来日。横浜グランドホテル支配人に就任
・1919(大正8) 退任
です。グランドホテルは金谷ホテルと同じ1873年創業の、外国人が山下町で始めたホテルの1つでした。
1905年(明治42)同ホテル社長ホールの主唱により、日本ホテル組合(のちに日本ホテル協会と改称)が発足します。その設立会合には、真一や弟の山口正造ら出席者リストの「員外」に「グランドホテル支配人 マンワリング」の名前があります。さらに1916−17の米国旅行の際、ニューヨークのHotel Waldorf (Waldorf-Astoria Hotel)について真一は“where Manwaring used to work”と記しています。真一とは1歳違いでもあり、同業者の中でも互いによく知る間柄だったようです。
真一が到着した翌々日にはマンワリング氏も東部から戻り、一緒に食事をしました。「日本に行く前、このホテルの角の通りにいた自分は60セントしか持っていなかった。この Palace Hotelの支配人になれるなど、誰も、自分でさえも思っていなかった。One never knows where his mission lies in his life.」と彼が語った言葉が真一の日記に残っています。マンワリング氏が20年以上勤めた横浜グランドホテルは、関東大震災で焼失しました。その後1927年に横浜復興のシンボルとして、震災の瓦礫で埋め立てられた山下公園に面して建てられたのが、現在横浜を代表するクラシックホテル、ホテルニューグランドです。
Palace Hotelには、(デトロイト Book Cadillac Hotelの)R. Carruthers氏から「ぜひ会いたいので立ち寄るように」との電報、シアトルのRichard Fuller氏からも、シアトルを訪ねるようにとの電報が届きました。前もって旅程と連絡先を知らせておいたことが伺われます。
R. Fuller氏は1919年8月、両親と姉兄の5人で世界旅行の途中で金谷ホテルに滞在した際、急性盲腸炎になり“Japanese coppermine“の病院(おそらく清滝の日光電気精銅所・現古河電気工業)で兄のDuncanによる手術を受けました。
その手配や手術後10月まで滞在して療養するうちに一家は真一と親しくなったものでしょう。Fuller家がこの世界旅行を通じて蒐集したアジアの古美術品は、のちにシアトル市に美術館とともに寄贈され、Seattle Art Museumが開館しました。
地元のツテ
真一はまた、日光駅助役の兄で、サンフランシスコに渡っていた猪野氏を訪ねています。同じく栃木出身のSakai氏とChinatownで共同経営しているPacific Dry Goods Co.について「ホノルルの尾崎商店より狭けれど、坂の途中にありなかなか多忙なるように見受けたり」と記しました。それからSakai氏に同行してもらい、Kodakのカメラを買いました。カメラが$45、ケース$3に追加の75セントで名前も入れて、フィルムが$1.2で$49.95のところ、$5引きの$44.95!地元のSakai氏に同行してもらったかいがありましたね。夕食は猪野氏宅で日本食をご馳走になり、夫人とその妹も交えて遅くまで語らいました。久々にくつろいで過ごしたことでしょう。
同じ住所、同じ名前の店が1942年まで営業していたことが、カリフォルニア州のオンラインアーカイブの画像からわかりました。それは日米開戦後の日系人排斥が強まり街を出ることとなり店のショーウィンドウに貼り出した、長年の愛顧に感謝する手紙でした。
ルームシェア
両替に立ち寄ったAmerican Expressのオフィスで、真一は初めてこの街にきたカナダ人のBurn氏が、Palace Hotelに空きがなく困っているところに出会い、「今夜は共にshare roomすることにせり」と書いています。マンワリング氏のホテルにいるという安心感からなのか、初対面なのにずいぶん思い切ったことをするものです。Burn氏は翌日昼まで起きず、真一を驚かせます。
トーマスクックのオフィスで手配を依頼し、19日からはYosemiteへ出かけます。
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