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(ほぼ)100年前の世界旅行 6/1 横浜からホノルルへ(1)


親しい人たちとの別れを済ませ、いよいよ出航の日。曽祖父・真一は宿泊していた帝国ホテルから、弟・山口正造(箱根・富士屋ホテル専務)、長女花子・正夫夫婦と共に電車で横浜へ向かいました。

出航まで

昼食は”TENT HOTEL"で、と日記にあります。このホテルがどこかずっとわからなかったのですが、関東大震災後に仮設で建てられた外国人向けの宿泊所を「テントホテル」と揶揄した呼び方があったことが横浜のホテルニューグランドのウェブサイトでわかりました。
東京に比べて、横浜は復興が進んでいないと真一も日記に書いています。この昼食は無料でしたが、"Mr. Muraourの親切に感謝”とあるので、明治初めにフランス人のムラオー氏が開業したオリエンタルホテルが仮設営業していたということのように思われます。
その後、急な依頼にもかかわらず予約を取ってくれたPacific Mail Steamship Company(PML)の横浜オフィスで所長のCampbell氏を表敬しました。ちょうどDollar Line Companyに買収され、オフィスも閉鎖する直前だったようです。船室もアップグレードしてもらいました。
そこから車で4号桟橋へ行き、President Taft号に乗り込み3時出航。いよいよ世界旅行の始まりです。

100年前の太平洋航路

19世紀半ば、イギリスと米東海岸を結ぶ大西洋ルートから次第に、アメリカを汽車で横断し、サンフランシスコから横浜、さらに香港へ郵便や貨物を運ぶロジスティクスの必要性が生まれました。同時期に創業した2社の競争になりましたが、協議により航路を分け合い、大西洋航路はUSメールスチームシップ(USM)、太平洋航路はパシフィックメールスチームシップ(PML)が受け持つこととなりました。1867年には初の太平洋横断定期船「コロラド」号(外輪船!)が就航。その後PMLが日本沿岸航路も高値で独占していた不利な状況を打開するため、日本でも1884年大阪商船、翌年に日本郵船が創業。太平洋航路に参入するとともに、海外で進む大型化高級化に合わせ、1908年には日本初の豪華客船「天洋丸」(13,000トン)が就航しました。

トップ画像は真一が乗るPMLのPresident Taft号です。14,000トン、全長163m、高さ21m、一等船客は256名、二等はなく三等が320名、乗員が209名でした。大体天洋丸と同規模です。

マジェスティック号の威容。タフト号が可愛く見えます

ちなみに1912年に沈没したタイタニック号の後継として1922年に就航したマジェスティック号は56,000トン、全長286m、船客は3000名超。太平洋航路より旅客数が桁違いに多かった大西洋航路向けとはいえ、客船の大型化の流れの凄まじさが感じられます。

Taft号はこの年に米ダラーライン社に売却されるのですが、ダラーライン時代の可愛らしいメニューの画像を見つけました。真一も毎日こんなメニューを見ていたのでしょうか。

参考文献:
野間恒「客船の世界史」潮書房光人新車 2018
富田昭次「船旅の文化史」青弓社 2022

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