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(ほぼ)100年前の世界旅行 デトロイト〜バッファロー〜ニューヨークへ 7/4-7


イエローストーンを出て、ソルトレイクシティ、シカゴと汽車旅続きの真一は、ようやくデトロイトに到着。この辺りは、1916−17年の米国旅行でも滞在したので、そこから繋がるエピソードがいくつかあります。まずはBook-Cadillac Hotelに向かいましょう。

Book−Cadillac Hotel

真一はここの社長(President)Roy Carruthers氏にあらかじめ旅程を伝え、サンフランシスコでは「ぜひ立ち寄るように」との電報も受け取っていました。15階の、風呂と応接室付きのRoyal Roomに案内され、「三日も四日も汽車旅、山旅をせしことあれば、急に宮様にでもなったような気がする」と書いています。殿様でも王様でもなく、宮様、というところが、頻繁に皇族方をお迎えしていた金谷ホテルの人らしいですね。

開業当時の広告。デトロイトのメインストリートのホテルです。

Book-Cadillac Hotelは1924年に開業したばかりの地上31階建、1200室の大ホテルで、当時最新鋭の空調設備による冷房の快適さに真一は驚きます。創業者のBook兄弟はデトロイト中心部のミシガン通りの不動産開発を手掛ける中で、すでに一角を占めて人気を博していたStatler Hotelに対抗するためCadillac Hotelを1917年に買い取り、大改修を行って開業し、すぐに富裕層の顧客を得ました。Statler Hotelはアメリカで初めて全室風呂付で$1.5という実用価格を設定したホテルチェーンのはしりです。真一が次にいくバッファローにもチェーン展開していました。

Carruthers氏の厚意で快適な朝を迎えた真一は、朝食後に氏の子息が運転する車で市内観光に出かけ、「今やStatlerも古びて見える」と日記に記しました。確かに最新のB-Cと、どちらかといえばビジネス寄りのStatlerでは比較にならなかったかもしれません。
ホテルに戻るとスタッフが丁重に館内を案内してくれました。またCarruthers氏からは、翌日学校に戻る子息と一緒に今夜船でバッファローまで行こうと誘ってもらい、ホテル代も船賃もC氏が負担してくれるとは、“Imperial prince“の気分だ、と書いています。やはり一人旅の緊張や、旅費の心配が常に頭にあったのでしょうか。単にPrinceではなくImperialとつけるところは徹底していますね。
ちなみにその後Book-Cadillac Hotelは1950年代以降シェラトン、ラディソン傘下入りなどの紆余曲折をへて、2008年にウェスティン傘下で営業を再開しました。当時の建物の雰囲気、まだありますでしょうか。

今のBook-Cadillac Hotel

日光自動車会社

市内観光の際に見たフォード社は「以前の3−4倍の生産量になったそうだ」と日記にあります。上記の8年前の米国旅行の際、創業者のヘンリー・フォードの案内でフォードの自動車工場を見学した、と真一は晩年の「ホテルと共に七十五年」(以下「七十五年」)に書いています。第一次世界大戦が勃発した1914年ごろ、離日を急ぐ外国人からT型フォードを1台購入した真一は、観光客の移動手段としての将来性に目をつけ自動車送迎をはじめます。その後米国でフォード氏に会えた機会に、自分の事業を説明し資金が苦しいと話をしたところ、日本の代理店に相談するよう紹介してくれ、10台購入することができました。その後広く出資を募り設立されたのが、日光自動車会社です。職を失う人力車夫には仕事を紹介しました。

そしてこの世界旅行の際、不思議なことが起こります。「七十五年」から引用します。

「大正の終わり、私は欧州に行ったことがある。旅に出るに先だって、自動車会社のことが不安でたまらない。そこで支配人に火災保険を倍額にして、つけて置くように依頼しておいた。船が太平洋を航行している時であった。日記をつけながら、トロトロと、うたた寝をすると、東照宮が焼けた夢を見た。おどろいて目を覚まし、なんと嫌な夢だろう、でも夢でよかったと考えたが、如何にも後味が悪い。ロンドンについて受け取った手紙を読むと、同日同時刻に日光自動車が焼けたと書いてある。保険金が十分についておったので、鉄骨で完全な復旧をすることができたが、こうした不思議なことが世の中には起こるものだ。」
注:世界旅行の日記の記録では、手紙を受け取ったのはロンドンより前のニューヨーク滞在中。

昭和29年「ホテルと共に七十五年」 金谷真一

バッファローへ

さて、世界旅行のデトロイトに戻りましょう。5日夕方に汽船“Greater Buffalo”でCarruthers父子と共にデトロイトを出発。月の美しい夜のエリー湖を進みます。1924年に就航したばかりの2000人が乗れる大きなこの船に一泊し、6日朝にバッファローに到着。父子と別れ、Hotel Statlerに荷物を預けナイアガラの滝見物ですが、米国旅行の際に水力発電所も案内付きで見学していたせいか、珍しくあまり感想を書いていません。カナダ側から10フィートほどトンネルを降り、滝を後ろから見て、Rope basketで反対側に戻り、Queen Victoria Parkを見物。その後バッファローの町を見物し夕方ホテルに戻ると、Assistant ManagerのWafer氏が2室続きの美しい角部屋に案内してくれました。恐らくCarruthers氏が前もって電話で知らせてくれたと思われます。

同氏と真一がどの程度の知り合いだったかわからないのですが、1つ見つけたのが米国旅行の際のこの名刺です。1917年当時の日記にはサンフランシスコのPalace Hotelで昼食を取ったことが書かれていますが、そこにCarruthers氏がいたことがわかります。日記では特に名前を挙げていないので、それ以降に親交を深める出来事があったのでしょうか。奇しくも1925年当時は真一の友人のマンワリング氏がこのホテルの支配人を務めており、真一はSFで親しく迎えられ旧交を温めています。Palace Hotelは米国のホテルマンにとって、ステップアップのポジションだったのかもしれません。

1917年に立ち寄ったSFのPalaceHotelにCarruthers氏がいました

この日はとても暑く、Statler Hotelでの夕食の際ウェイターが「お国はここより暑いでしょう」と、真一に話しかけます。インド人と間違えているとわかり指摘をすると、”Is that so?”と。信じてないですね。確かに少々クッキリした顔立ちですが…どうでしょうか。

金谷真一(1879−1967)


Statler Hotelでは、冷風循環器はほぼ米国のホテルの標準になりつつあること、部屋のドアが二段構えになっていて、朝客を起こさずにアイロン済みの服を各部屋に届けることができる工夫もあることなどに注目しています。

そして、いよいよ翌日7日にはニューヨークへ移動して、真一の異母妹・登志子宅に滞在予定です。真一が20歳の時に生まれた登志子は、この頃三井物産勤務の夫と共にNYに住んでいました。真一は久しぶりに羽織袴の正装でニューヨークに向かいます。他家に嫁いだ妹とその夫との久しぶりの再会、しかも2週間も厄介になろうという挨拶に、威儀を正して臨んだ様子が伺われます。

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