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(ほぼ)100年前の世界旅行 6/1 横浜からホノルルへ(2)

今回はちょっと盛りだくさんです。どうぞお付き合いください。

船旅の楽しみ

何と言っても食事とレクリエーション。真一も6月1日の乗船初日、早速荷ほどき、入浴し、羽織袴に着替えてDining Saloonに繰り出しました。席次は決められており、ホノルルまではずっと同じメンバーだったようです。フィリピン人の楽団もいて、「山海の珍味」を音楽とともに楽しんだあとは、みなが無邪気にダンスをする姿に圧倒された様子で、「Keep Smiling!」と自らに喝を入れています。

横浜からホノルル経由サンフランシスコまで16日の船旅の間、3食の他に午前10時と午後5時にBeef Tea(牛肉を煮出したスープ。一種の滋養食)が配られ、アフタヌーンティ、夕食後のダンスのあと午後11時頃にはafter dance supperとして日本風のすき焼きが振舞われることもありました。これで旅費が$300。真一は旅行中の費用を日本円換算して日割りにして日記に書きつけていますが、航海中は1浬あたりまで計算して”わずか5.5セント!”と驚いているのも何か微笑ましい感じがします。

レクリエーションのメインは、夜毎のダンスパーティー。それも趣向を凝らして「Sayonara Dinner Dance (日本で買ってきたものを身につける)」、「Hard times dinner (古いものを身につける)」、「Fancy Dress Dance(思い切り着飾る)」などで盛り上がりました。Sayonara Dinner Danceでは、関東大震災の際に日光金谷ホテルに滞在していた旧知のGillespie夫人が着物に島田髷のかつらで登場し、羽織袴姿の真一(こちらは特に仮装ではないが)とGood Matchとして一等賞をとりました。

羽織袴姿の真一

他にも映画やスポーツ大会(甲板一周マラソンや、水を張った盥のリンゴを手を使わずに咥えて走る、パン食い競争のようなものが定番だった様子)、乗客たちによる音楽会など、Chairman of Committee for Sportsという肩書きの、Moser氏という人物が企画していたようです。中でも特に面白い遊びは”Special Court"かと思います。これは、日付変更線を越えるため6月6日が2回あるのはカレンダーの秩序を乱す行為であるとして、船長を被告として開かれた法廷で、乗客たちは勝手に証人、参考人となって、それぞれの立場で船長を弁護し、あるいは追及し、裁判ごっこを大いに楽しみました。真一は最後の参考人として”東洋人にして博学者、大学校を卒業し哲学をも研究せらるるDr. Professor Kanaya"として出廷を促されました。「閉口せり」とは言いながら、日本語で思うところを申し述べ、もちろん相手は日本語がわからないので勝手に弁論し、楽しく終了しました。
一等船客では唯一の東洋人ではありましたが、皆で大真面目に遊ぶ様子はおそらく、冒頭に掲げた金谷ホテルの年末年始のダンスパーティーのような雰囲気で、真一にとっても馴染みのあるものだったことでしょう。

悲しい出来事

裁判ごっこで盛り上がった直後、悲しい知らせが出されました。

NOTICE TO PASSENGERS
ONE OF OUR FELLOW PASSENGERS MR. C.B.PERRY, HAS DIED SUDDENLY TODAY, AND WILL BE BURIED AT SEA TODAY AT 5:30 P.M. FROM THE MAINDECK STARBOARD SIDE. ALL GAMES AND ENTERTAINMENTS WILL BE ELIMINATED FOR TODAY AND TONIGHT.

乗客の英国人Perry氏が急死し、水葬されるという知らせに「船中寂として声なし」。まだ27才で、横浜に赴任したばかりだったが病気になり、この船で本国に帰る途中の出来事でした。船は5時半に航行を止め、乗客の牧師が祈りを捧げたあと、Perry氏は太平洋に葬られました。真一はPerry氏を数日前に見かけたことを思い出し、「旅中病死する人の苦痛は勿論なれど英國にある両親が此の報に接せしなら如何に嘆かるることならん。同情の涙に咽ぶ」と記しました。

日本人の少女

当時の船の一等から三等までの待遇差は非常に大きく「野獣のごとく扱われる三等船客」と真一は書いています。その三等に日本人の少女がいるのに気がつき、男たちに尋ねてみると、20才ぐらいの琉球の女性と10才ぐらいの少女が見つかりました。中国人、フィリピン人ばかりのなか、草履を履いていたからわかったようで、持ち合わせた煎餅を分けて仲良くなりました。日本語を解さない男性がハワイまで連れていくのだと聞き、「如何にして米国に上陸せしむるや」と心配しています。太平洋航路は移民の旅でもありました。

ホノルル上陸・尾崎商会

航海10日ののち6月10日、Taft号はホノルルに入港しました。事前に地中海ミバエ対策の検疫のため、植物の持ち込み厳禁の通知が配られました。これをもって日本人のみならず日本の果物までも締め出すのかと早飲み込みするのはいけない、実害のあることだから仕方ないと真一が書いているのは、1924年のアメリカの移民法改正が日本人を排斥する目的だ(全体的に移民流入を抑える目的だったが東洋人移民の大半は日本人だったため)とする反発が日本の側で強かったことをうかがわせます。

ホノルル港税関では、手土産の甘納豆を官吏が実際に食べてみて”Sweet!"といい55セントの関税が課せられました。Taft号乗船中に電信のやりとりした通り、親戚の尾崎夫妻、増山夫妻が迎えに来てくれました。尾崎家は、金谷ホテルの支配人をしていた坂巻正太郎氏が創業した中禅寺湖畔・レーキサイドホテル(今はリッツ・カールトン日光があります)の縁者です。尾崎氏はホノルルで「銀座なら服部(今の銀座和光ですね)ともいうべき」場所で大規模な日本雑貨店を営んでいました。家具から草履まで、あらゆるものが揃っていたといいます。

数年前に日光でテニスをした弁護士のProser氏を思い出し会いに行ったのち、増山氏の自家用車でPaliのパイナップル畑から米国海軍の根拠地となるべく整備される軍港を見、「有明ゴルフコース」を眺め増山家に到着。近くのモアナホテルで昼食をとりました。ここは1901年創業のホノルル最初のホテルです。海に面した7階建450室、大規模なパーティーホールも備えた堂々たる作りで、日本人も多く働いていました。支配人のPoirier氏の案内で客室も見せてもらい、「日光の11-12号室のような」続き部屋風のものが多いと書いています。今はMoana Surfrider, A Westin Resort & Spaです。

真一はホノルルの町の美しさ・環境の良さから、観光地としての大発展を確信、軽井沢万平ホテルの佐藤万平氏も視察にしたと聞き納得します。とともに、多くの軍艦や軍用自動車をみてここがarmed cityであることを実感し、なぜここまで備える必要があるのか、と訝しみます。その備えの対象は我が国ではないのか、老獪な英国に対抗する外交の秘訣は、老功練磨冷静なる頭脳の所有者こそが獲得するのだ、と。日米開戦の端緒を開いた真珠湾攻撃はこの16年後、真一62歳の誕生日のことでした。

約半日のホノルル滞在を終え、再びTaft号に乗り込みます。次の目的地は、サンフランシスコです。

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