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(ほぼ)100年前の世界旅行 ミラノ〜コモ〜ルガーノ〜ストレサ〜ベニス 1925/10/1-6

1925年6月に横浜を出発した金谷眞一の旅、すでにアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ、ベルギーを経て、8カ国目のイタリアを旅しています。ジェノバからミラノ、そしてイタリア北部の湖水地方に向かいました。

コモへ

10月1日、早起きしてジェノバを出発し、11時にミラノに到着。ここでもトーマスクックにまずは挨拶です。ただ、観光ツアーがこの日は催行されず、一人で大聖堂や美術館を巡ります。
眞一は、美術館や教会も訪れているのですが、どうも自然に近いところを好んだようです。標高500メートル超の日光の人、しかもホテル視察も目的の旅と考えれば当然かもしれません。ここでもすぐに湖水地方コモ行きを決定。フットワーク軽く夕方6時にコモに到着し、グランドホテル・ヴィラデステへ。眺めが素晴らしく、ミラノに泊まらなくてよかった、と日記に書きました。
このヴィラデステは、16世紀(!)にコモのガリオ枢機卿の別荘として建てられ、1815年英国ジョージ4世キャロライン妃の邸宅となった壮麗な建物です。1873年にミラノの実業家が買い取り、ホテルとして開業しました。この年はちょうど、眞一の父、金谷善一郎が自宅で外国人向けの「金谷カッテージ・イン」を開業した年でもあります。今も25エーカーの庭園に囲まれた美しいホテルです。

今も、この眺めはほとんど変わっていないようです。

ルガーノ

翌日にはルガーノ湖畔のルガーノへ移動です。まずコモ湖遊覧船にのり、メナッジオのグランドホテルで川魚フライと子牛肉ソテーで昼食です。25リラは2.5円、今だと3000円くらいでしょうか。さらに午後の汽車でスイス・ポーレッツァ、汽船に乗り換えルガーノ、ホテルスプレンディドに到着しました。まるでスイスのルツェルンのようだ!美しい!と喜んでいます。スイスはよほど気に入っていたようです。ホテルでは以前神戸にいたアメリカンエキスプレス社のメリマン氏と再会。今はボンベイ駐在で、また11月に神戸に戻るようです。

「ルガーノ:パラディソ」

翌日10月3日、午前中はケーブルカーで近くのBre山に登り、頂上のクルム・ホテルの塔からさらに美しい景色を楽しみました。

クルムホテル

そして眞一「このケーブルカーは中禅寺に欲しい!」。
早速、「建設費 65万フラン=325,000円 (ただし10年前)
長さ 1600メートル 一台32−38名乗り。 Bell&Co., Kriens 」と、費用も会社名も聞いてきて、日記に書き付けました。かなりやる気ですね。

宿泊したSplendid Hotelは、1887年創業。現在も湖畔の美しいランドマークとして親しまれ、多くの王族、貴族が宿泊したことから1950年代に名称を「ホテル・スプレンディド・ロイヤル」に変更しました。オーナーのフェデーレ・ジアネーラ家の一人であるホテルの責任者リッカルド・フェデーレ氏から戦後(第一次大戦のこと)の物価高騰の影響、今はもうこれだけの建物は作れない、などの話を聞きました。ホテリエ同士、その苦労はよく理解できたことでしょう。

ストレサ

その日の昼食後には船と汽車を乗り継ぎ、マジョーレ湖畔ストレサに到着。ホテルレジーナパレスへ向かいました。ここは1908年創業、1922 年にホテルはボッシ家に売却され、その後さまざまな馬の競技会が始まり、街もホテルも賑わったようです。

1923年のストレサの馬術競技大会のポスターをEtsyで見つけました。おしゃれ!

このイタリア湖水地方で滞在したホテルはみなスイス・サンモリッツのスブレッタハウスのオーナー、ハンス・ボン氏の推薦、紹介によるものです。その全てが時代に合わせて変化しつつ、現在もその美しい姿を留めながら営業しているのには驚かされます。

レジーナパレスのオーナーで支配人のボッシ氏から、翌日イタリア王太子が来ると聞き、眞一は滞在を一日伸ばすことにしました。
そしてここでようやくマリオ・ボルゴーニャ氏に再会しました。横浜からサンフランシスコまでのプレジデントタフト号で知り合い、ヨセミテでも再会したボルゴーニャ氏はイタリア・トリノ在住。眞一はトリノで訪ねようと考えていましたが、夏の間はフランスやイタリアに出掛けていてなかなか連絡がつかず、ここでようやく同じくマジョーレ湖畔で滞在中のボロメーズホテルで再会をはたします。

こちらがボロメーゼホテル

ボルゴーニャ夫人は馬術競技に出ていて、すでに二日連続で勝ったと言いますから、すごい騎手ですね。彼らとの翌日の昼食に招かれました。

翌日はイタリアでもっとも高地を走るモッタローネ鉄道でモッタローネ山へ登リ、車窓からの美しい景色、頂上からマジョーレ湖を臨む眺めを楽しみました。

山にはとりあえず登るタイプです

午後はボルゴーニャ夫妻との昼食には行かず馬術競技見物に行きました。初めて障害競技をみて、「人馬のエネルギーが素晴らしい」と日記に記しました。そして夜は、王太子が出席して馬術競技の表彰会が行われ、それに続き舞踏会です。

Dance started at once, and Prince took hand of one of the ladies and all followed him and there were at least three hundred people.

1925年10月4日日記より
王太子が絵葉書になっています

王太子はのちのウンベルト2世(1904−1983)。第二次世界大戦後は廃位にされ、サヴォイア家最後の王となりました。のちにポルトガルに亡命し長く「欧州最後の王」として知られました。この舞踏会は、王太子が私的な行事に出席した初の機会で、朝の4時まで続きました。

眞一が朝食に行った時にボッシ氏はすでに舞踏会後の客に出す軽食を差配していました。当時70歳を超えているはずの氏のその姿に、眞一は2年前に亡くなった父・善一郎を思い出しています。
朝食後は船を雇い、ベッラ島のボロメオ家宮殿を見学です。

1671年に建設された宮殿は、19世紀に英キャロライン妃が気に入り買い取ろうとしたものの果たせず、その代わりにコモのヴィラデステを手に入れたと言います。庭園には様々な植物が咲き乱れ、眞一は大いに感心しました。

当時のイソラベッラ。多分今もそれほど変わっていないことでしょう。

ベニス

そこから昼にはベニスに汽車で向かいました。夜9時に到着し、ゴンドラでホテル・デル・ヨーロッパへ。グランドキャナルに面した小さくて良いホテル、水道付シングルが50リラです。

ベネチア


ここでもまたトーマスクックを訪問し、観光ツアーに参加し主だった名所はほとんど全て回りました。でも、「街は汚れ、水が臭く楽しめない。この街は夜見るのが良い」というのが感想です。早速翌日にフィレンツェに移動することに決めました。

この後はフィレンツェ、そしてローマへ。欧州最後の訪問国イタリアの旅はまだまだ続きます。

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