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500文字短編写真小説:Tsuki

音楽

 ジェームズ・エバンズは一通りの研修を終えて、大学付属病院を出た
 真冬の夜だ。エバンズのいる附属病院は、大きな通りに沿って建て込まれている。ことに、その通りは悪意に覆われた。そなかでも附属病院の窓から光はこの空間に乱反射した。そしてエバンズはここで、この窓の奥には逞しい医者がいるにちがないと考えた。まさに、窓から放出される光は、これらの医者の隠匿された象徴なのだろう、苦悩ともいうだろう。それは地虫の声となった。それらを大通りの木々が<音>として吸収した。
 エバンズの母は狂死した。首を吊った。なぜ首を吊ったのかはエバンズにはわからなかった。『おれは母の気狂いの血をひいているにちがいない!おれも母のように首をつって、さっさと死ぬにちがいない!』。エバンズは悲しみに酔った。昨夜とは違い、満月が銀貨のようなったとエバンズは思った。大通りをぬけて正門を右折した。街灯も性急に葉を落とした枯木の下でたたえず背広の男のようなエバンズの静寂を迎えた。『おれはなぜこのキチガイの血をひいたのだろうか』エバンズの若い温まった筋肉にその静寂が滲んだ。
 トゥーティングブロードウェイ駅を降りる、というのも、エバンズにはそれがわからなかった。ある老人がホームの席に座っているのをエバンズは薄光から認めた。エバンズは老人の顔に空いた二つの穴をみつめた。キチガイの血、覆われた悪意、母の狂死。ふいにエバンズの耳を≪ビートルズ≫が占めた。それはエバンズの骨格にの逞しい皮の薄い頭を支えるにはあまりにも貧しい身体通じて放出した。至福にエバンズは恍惚になった。エバンズはあの<木々>となった。『おれのこの邪悪を見出す目はこの≪音楽≫のせいなんだ!つまりは母親の自殺はまったく自然の物象なんだ!』
 電車に乗ればビートルズのフレーズけたたましい増幅の運動をし、エバンズは快活であった。エバンズはまた想像するだろう。『おれがこんなに<木々>となっているなら、あまねく人々の耳に、エバンズは透明人間のようだと評していると入るだろう』エバンズは汗で全身が甲虫の体液のように粘っこくにじむのを感じた。エバンズはこの地下鉄道の空間の覆う悪意をじっと見つめた。

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