「私」とはなんなのか

自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

自己紹介、SNS等でプロフィール欄に記入するとき、否が応でも自らのアイデンティティは何かと突きつけられる。
生年月日、出身地、所属、趣味。自分自身の説明には、たいていこのような事柄が用いられるし、これらで事足りる。どのような人となりかがわかる。
就活の際にも自らのことを語る機会があるだろう。自分がどのような学生生活をおくってきて、何ができて、何をしていきたいか、など。

それでは、”生まれた日や場所、自分がどこに属しているのか、何を好んで行ったり食べたり聴いたりするのか” が「私」と言えるだろうか。
これらはパズルのピースのように全体(「私」)を構成する一部分として考えてもよいということなのか。

ただ―ありえないことではあるが―出身地や所属、趣味が限りなく似通っていたら、その人と自分は同じと言えるか。もちろん、言えない。完全に構成要素が一致していない限り、似通っている要素を持っていたとしてもただ似ているだけだ。

まったく顔が同じで同じ趣味で同じ所属で、という場合を想定したらどうなるだろう。世の中には一卵性双生児の方もいるのだから、赤の他人同士で想定するより実在可能性は高まるはずだ。趣味が同じ。生まれた日も生まれた場所も、所属も好み(好きな人も、、、??)も、顔でさえも同じ。
ここまでくれば「私」が二人いるような感覚になってもおかしくはない。

つらつらと構成も考えずに書き連ねてきたが、アイデンティティは他人との差異ではないだろうか。
極論を言えば、この世に「私」以外誰もいなくなれば、自分が何かなんて考える必要はなくなる。
他者を認識して初めて、その違いから「私」という存在を認識していくのではないだろうか。
私たちは一人では生きていけない、ということは他者との関係の中に生きていると言える。確固たる「私」というものは存在しない。核となる「私」も存在しない。周りの環境によってアイデンティティは容易に変化する、と感じた。他者との比較を経て、その差異を認識することで「私」という存在がどのようなものかがわかるのだろう。

「私」は何者か、という問いの本質は、「所属するコミュニティにおいて、「私」がどのような立ち位置にいるのかを示しているのか」ではないだろうか。



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