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4連敗の最中での神との関係。

皆さん、お久しぶりです。yscc 2番 花房稔です。
日に日に暑くなってきましたね。
午前〜昼間にかけての練習なのでこの時期は暑さとの戦いでもあります笑 夏はここからですね🥵
皆さんもここから夏楽しみつつ熱中症とかにならないよう秋を迎えたいものですね♪
水分補給、そしてミネラルたっぷりのお塩を選ぶことも大切ですよー!

さて、タイトルにある通り、
僕たちはJ3リーグ戦、4連敗をしていました。
そして先日の試合で連敗を脱出しました。
ysccファミリーのみなさん、
後半戦も応援お願いします✨

結果はこんな感じです。
6月
2日vs宮崎0-2
8日vs長野0-4
15日vs岐阜1-2
23日vs八戸0-1
29日vs沼津1-0
沼津戦で前半戦終わりました。
この折り返しで勝てたことは復調の兆しだと僕は感じています。

4連敗の中で僕にとってとんでもない試練がありました。それは8日の長野戦です。
観ていた方ならわかると思いますが、前半は0-2で折り返し、後半攻めの勢いが出てきた中で、僕はミスをして3点目を献上してしまい、チームの勢いを止める形になってしまいました。
その時の感情は絶望、不甲斐なさ、申し訳ない気持ちなどが溢れでた。喜び、嬉しい、感謝という気持ちの上に負の感情が心を埋め尽くすことが感じられました。
『神よ、なんでですか? 新たな試練ですか? 結構きついです。苦しいです。助けてください。』と
試合中に、試合後に、帰りの新幹線でずっと思って祈っていた。帰りの新幹線で聖書を読んでいても中々、入ってこなかった。

時をさかのぼると、長野戦までの1週間、なぜだかなかなか寝つきが悪かった。それに頭にモヤがある感覚もあった。それでも朝、練習前、夜、必ず神に祈っていた。ただ今思えば本当に心の底から祈っていたのか?、とか形だけであったのかもしれない。けど祈ることはやめなかった。
その中で起きた、目に見えた失敗。敗戦。
神は何を計画しているのだろうと、いつも僕を愛して僕のために働いてくれているとわかっているけど、この結果に納得できないという思いや、自分のミスで負けたことがすごい悔しかった。


長野戦の次の日は日曜日。
約1ヶ月半ぶりとかにサービス(礼拝)に参加することができた。僕が通っているところは十字架が立っているTHE 教会みたいなところではなく、カフェで行っている。人が入りきらないので違う会場でその日は映像を通して、神のファミリーと一緒に賛美し、牧師の話を聞いた。
その時の心に刺さったことを短くまとめて言うとすれば、バプテスマのヨハネという人が牢獄に入れられ、
イエスキリストからも、

"あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。"ルカの福音書 7章28節

このように言われているヨハネでさえ、牢獄中、不安を感じ、ヨハネはヨハネの弟子2人をキリストのところに遣わした。

という場面。一瞬でその時の自分に置き換えられた。
前日の試合の自分のミスが思い出され、3失点目の瞬間、神よなぜですか? これもあなたの計画なのはわかっていますが、なぜ今なんですか?と少し疑問というか納得できない、いやしたくない自分がいて、今まで神が僕に全て与えてくれていたことや、恵みや、祝福を、そして無償の愛を示した十字架をあの時は考えられなかった。不安の中にいた。

キリストからも素晴らしいと認められていたバプテスマのヨハネでさえも、苦しい状況下のとき疑う心や不安になる心があるんだなと、
僕は心が少し軽くなった。人間はほどほど自分の理想通りにならないと不安になるものなんだなと。
理想通りにならなければならないという思いが強いほどに、目に見えて良くないという結果が訪れた時にそのギャップにやられてしまう、本当に弱いなと感じた。
そして、礼拝が終わり、いつもファミリーの1人とご飯を食べた後に、帰ったり、整体に行ったり、1人でカフェで礼拝のときのことをもう一回思い返して紙に書いたりしていた。

でもその日はフェローシップに参加した。
フェローシップとは神を信じるファミリーとその日の礼拝の心に残った聖句、言葉やまた今の状況を共有して、祈りや励ましなど、分かち合うもの。

しかし、僕は結構このフェローシップが苦手であった。自分をさらけ出すのがめんどくさいと思ったり、1人になる方が楽だなーとか思ってたりで全くフェローシップに参加していなかった。
しかしこのときは必要だと。心が渇ききっていたので求めていた。神を信じる方々のことばを。そして知りたかった。皆んながどのように神と生きているか。絶望の中をどう乗り越えていくのかを。
 
そして10人くらいの方とフェローシップ。
色々な考えを聞くのも、また神とどのように歩んでいるかを知るのが本当に新鮮でなんか心が温かくなっていくのを感じた。僕の神との関係が細い線だったのがちょっと太くなるのを感じた。
 
僕が話す番がきた。
試合で負けたこと、また試合の中で致命的な失敗をしたこと、そのとき神を表面的に少し疑ってしまう心、僕と神との繋がりが薄いと感じていることを考え話している内に、涙が溢れて出てきた。止めよう止めようと思っていても溢れてくる。神の存在を感じ信じた1年半前と同じように涙が止まらない。ちゃんと受け止めてくれる方々で、自分の弱さを隠してきた壁が一瞬で崩れ、涙が溢れたのだと思う。
それと、神を信じるこのファミリーと深い関係が築きたいとずっとずっと思っていたけれど、踏み出せない自分もいてそれも含めモヤモヤしていたときに、このようなフェローシップの機会が与えられた。神がこのような祝福を用意してくれるために長野戦のことがあったのかと思った。
ファミリーの方が、もう家族だよ。と言ってくれたり、この試練はより大きな祝福が与えられるために必要なことで、また成長できるよ。と心から励ましてくれたり、聖書の聖句を共有してくれたり、そして祈ってくれました。

"このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。
それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」"
ローマ人への手紙 15章20~21節
共有してもらった聖句。

僕がysccに入ったのには必ず意味がある。
神の計画がある。僕は主イエスキリストの福音を宣べ伝える必要がある。誰かが僕の生き方を通して、キリストを見るようになり、また悟るようになると。
だからこの長野戦でのミスを引きずったままでいいはずがないと。僕はキリストの御前に立った時に、やるべきことをやりました。と言えるように生きていこうとさらに思った。それはこう書いてある通りです。

"イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。"
ルカの福音書 9章23~24節

神の国に行くためには自分を捨てて、キリストのように生きる。このように宣言しても僕は弱い。
隙あらば、悪魔が良からぬことや考えを与える。人間には自由意志が与えられ、選べる。悪の道が、神の道に歩むのか。
聖書を読み、蓄え、ファミリーとの関係を深めていくことが大切なんだと知れた。

あー、、僕の思っている全てのことを神は知っているんだなと、試合で致命的なミスしてしまったことも、
フェローシップの場を与えてくれたのも、より深く神とファミリーの関係を築くためにあったのかと。
そして、それをまだ神を知らない方々へこの平安、喜び、祝福で満ち溢れた道に歩めるように導くためでもあるんだなと再確認しました。

長くなりましたね。

最後に6月29日の沼津戦で勝利し、4連敗から抜け出した。その日の試合前に聖書を読んでいたら心にザクっときて試合に臨めたこの御言葉を。

"あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。"
コリント人への手紙 第一 6章19~20節

僕の体は僕のものではない。神の宮で神のものです。
キリストが人間の全ての罪を十字架の上で明らかになった捧げ尽くす愛を示して、あがなってくれたおかげで今日も生きていられている。
だから僕のこの体を神の栄光を現すために使おうと、
この沼津戦も神のためにプレーしよう、そう思って臨めた。

聖句も合わせて3500字のここまで読んでくださりありがとうございます。

今もなお、不安の中にいる方や、弱さを押し殺して強く生きていこうと思っている方、はたまたこの先の未来に絶望を抱いている方もいるでしょう。
けど大丈夫です。
唯一の道があります。
宗教やキリスト教はやらなくていい。
聖書のイエスキリスト、この方の道が唯一の道です。そして真理で、命です。
ぜひ真理の本、聖書を手にとってみてくださいね。
(新約聖書の4つ福音書のどれかから読んでみるといいかもです。イエスキリストの人生や語ったことを弟子たちが書き記したものです。例え話も主イエスはわかりやすいし面白いです笑)

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。"
ヨハネの福音書 14章6節

"しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。"
コリント人への手紙 第二 12章9~10節


あなたが弱いときこそ、あなたは強い。
強くさせてくれる唯一の実存、神である主イエスキリストです。

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