中卒でシングルマザーで貧困だったマナー講師
私は九州の熊本県で育ちました。四人兄弟で、末っ子の女の子として生まれましたので、それなりに甘やかされて育てられたものの、父親は根っからの九州男児。一緒に食卓を囲んだ記憶はほぼありません。
常に敬語で会話し、こちらの意志を通すことはできず父の言うことはすべて「はい」と言う家庭で育ちました。
板張りのうえに何時間も正座をさせられたりもしました。
義理の姉が遊びに来た時の話です。コーラを飲みたいと思った父は義理の姉に、コーラを頼むと義理の姉は2本あるコーラのうちキャップが空いているコーラを注いで父に差し出しました。
すると父は、「父親に空いているコーラを差し出すのは何事だ、人には空いてないコーラを出すものだ、それが気遣いだ」、と叱ったそうです。
私がマナー講師を選択した原点は、この母のパチンによる所作の大切さを教えてくれたことと、父の厳しい躾のお陰です。
反面母はどこまでも優しい人でしたが、所作に厳しく、一度私が膝を広げて椅子に腰かけていたところ、パチンと膝を叩かれ、「女性が膝を見せるものではない」と叱られました。
中学生の頃、おしゃれに興味を抱きだした頃「昔の女性が短刀を所持している理由は知っているか」、と叱られたことがありましたが、パチンと叩かれたのはこの時だけでした。
私はアルバイト先で知り合った十四歳年の離れたとても穏やかで優しい人との間に十九歳で赤ちゃんを授かり、二十歳で結婚しました。二十歳になるとほぼ同時に出産したため、成人式にも出席していません。
しかし生まれてきた赤ちゃんは天使のようで、二十四歳で生まれた次女も可愛らしい愛おしい存在でした。
ところがこんなに可愛い子どもがいる幸せな結婚生活であるはずが、相手は風来坊でお給料日なのにお給料を入れず、行方不明になることも屡々あり数日帰宅しないのです。
光熱費等の支払いが終わった頃、何日もお風呂に入っていないような異臭を放ちながら帰宅してきます。今では笑い話ですが、こんなこともありました。辻堂まで雪の降る日に海沿いの道を自転車の前の籠に上の子を乗せ、背中には下の子をおぶって行方不明の相手を探したことは今では寒かったな、と思い出し吹き出します。
次女の妊娠中はチョコレートや実家から送られてきたスイカで空腹をしのぎ、小児喘息で入院していた上の子の残した食事で栄養を取っていた時期もあります。
これも今では笑い話ですが、借金の催促状が届くことも借金の取り立て屋が家に来たこともあり、女性用品も買えない時期もありました。
しかし厳しい家庭で育った私は離婚は考えておらず、なんとか理想の家族を作ろうと努力しつつ、子どもには特に所作については事細かに厳しく育てました。
若い母親の子どもだから、と周囲のお母さま方に後ろ指を差されないように箸の上げ下げから、マクドナルドのポテトの食べ方、飴の食べ方まで私が母に教わったように所作の隅々までそれはそれは厳しく躾ていました。
思い返せば、異様ではありますが、三、四歳の子どもが私の目の動き一つで、大人同然の言動をするのです。
記憶をたどると義父の葬儀の際は、当たり前のように正座させ、ピクリとも動くものなら私の目がギラっと光り、動きを止めさせる。
このように子どもにとってはあまりにも厳しすぎる母親でしたので、当然子どもたちは優しい父親を逃げ場とし、優しいパパが大好きでした。特に上の子には厳しく七五三の着物がきついと言えば、お祝いはしないと言いお祝いの日をずらしたと記憶しています。
また、上の子は父親に小学校を卒業するまで送られて通っていましたし、私が上の子を叱ると必ず父親が仲裁に入り、事が収まると言った次第でした。次女については、父親の記憶は薄いようですが、それでも離婚するまでは「パパ、パパ」となついていました。いよいよ厳しい母親であった私は三十四歳で、家は抵当にはいりましたが、養育費と慰謝料を支払う約束の元、紆余曲折ありながらも離婚しシングルマザーとなるのです。奇しくも離婚届をだしたのは二月十四日で、皆さんご存じのバレンタインデーです。そして新しい家へと引っ越しました。このころはまだ金銭的に余裕があり、比較的条件のよい家へ引っ越すことができました。
私は、生活のために学歴の条件のない、且つ時給の良いところを探していたところ、一枚の折り込みチラシから大手のアウトソーシング会社が契約社員を募集しているのを見つけて、運よくコールセンターで働きはじめることができました。
そしてここからは今まで躾に厳しすぎる母親であった私は教育方針を変え、一遍してだらしない母親になりました。
「このまま厳しい母親では子どもの逃げ場所がなくなる」これが一番の理由です。今までは自宅であっても、トイレでは必ず水を流しながらすること、おならがでたら「失礼」と言うこと、人様の前ではいかなることも限界まで我慢することを強いていました。それがどうでしょうか、おならが出るのも当たり前、お部屋が汚れるのもたまにはいいではないか、と言った具合に少しずつ変化させました。
もしかしたら当時C型肝炎に感染していたことが会社の健康診断で発覚したことがきっかけに、お金も時間も気持ちも体力もなくなり、変化せざるを得なかったのかも知れません。
体力のなくなった私はフルタイムで働いていたコールセンターを週三日にしました。しかし体は休めてもお金はない。養育費も慰謝料の支払いも反故され、毎月毎月、文字通り食べるだけで精一杯で、焦燥感にかられながら過ごしていました。
そして生まれて初めて、借金をすることになるのです。懇意にしていた友人からお金を借りたのです。お陰様で食べつなぐことはできましたが心は借金をした罪悪感に苛まれ虚しさに覆われていました。
結婚生活をしていた家は抵当に入ってしまっていたので、借家住まいでは当然家賃があります。家賃を払わなければ家は追い出されます。頭では理解していてもやはり食べることが先で、家賃を捻出できず結局六ヶ月間の家賃を滞納したまま立ち退き日が決定しました。
この時の私は、いよいよ立ち退かねばならない喪失感、虚しさ、腹立たしさでいっぱいでした。誰に腹を立てていたのだろうか、思い返すと生計を立てられない自分と世の中全体だった気がします。
さて家を探さなくてはなりません。結婚していたころに向かい入れた犬(マロン)の飼育ができる物件と初期費用の無い物件探しが始まるのですが、マロンを飼育できる物件はいずれも家賃も初期費用も高く見つかりません。
家はあっても元手がない劣等感で日々暮らしながら、友人にも、民生委員さんにも手伝ってもらい、来る日も来る日も時間を見つけて何件もの不動産屋さんを回りました。
お金もないのに犬を飼うなんて、と思われるかもしれませんが、マロンは下の子の父親代わりでも拠り所でもあったのです。そんな私の息子でもあるマロンを手放すことなどできません。
しかし、このままいくと私たちは母子寮にはいらなくてはなりませんでした。
思春期の上の子は母子寮に入りたくないと言います。
家族がバラバラになるなんて私の中ではありえません。ただ、生きてはいかねばならず下の子は私と母子寮に入り、マロンは懇意にしてくれていた方から譲ってほしいとの申し出があったので委託することを考えはじめていました。
迷いに迷いました。子どもたちは、「マロンは家族だよ。ママがそんなことを言うのはママじゃない」と言います。
確かにその通りでした。あれほどマロンを息子として可愛がっていた私が手放したいと思うはずがありません。また、上の子は母子寮に入るくらいなら友達の家に下宿するとまで言い出します。
確かに上の子の性格なら一人でも生きていけるだろうとの思いもありましたが、これは私にとっての家族像はないですし、どうしたらよいのかもうわからなくなっていました。
この頃から私は子どもに甘えていたのだと思います。上の子の真意が訊きたいと、アルバイトをしていた娘のご馳走で、パスタ屋さんに行きました。高校生が一生懸命に働いたお金で食べたパスタとサラダの味は申し訳なさと涙で覚えていません。
覚えているのは「一緒に住んでいた家族としての最後の晩餐だね」と交わした言葉と「また、いつか来ようね」と黙々と食べたことだけです。
私は、上の子も、下の子も、マロンとも一緒に居たかったのです。「私が思い描いていた家族像は、こうではない。何かが違う。」何とか母子寮に入居せずに済むようにしなければと決意し、悩みに悩んだ末、兄弟に頭を下げて引っ越しの初期費用を借りるお願いをしました。なんだ、最初から兄弟にお金を借りれば済むではないか、と思われるかもしれませんが、
十九歳で妊娠しましたので家族の反対を押し切って二十歳で結婚したこともあり、連絡すら取りづらかったのです。
そのうえ、結婚生活も順風満帆な生活ではなかったので、兄弟にどれだけ迷惑をかけていたかと思うとなかなか決断はできず、兄弟と言えども、また恥をかくのかと思うと容易に借りられる心境ではありませんでした。
私にとっては兄弟からお金を借りるのは、離婚より大決断だったのです。案の定、マロンのことを指摘されましたが、どうしても譲れないことを説得し、返済予定と共に、借金の申し入れをしました。
返済予定表を出したとはいえ、返す当てのないお金を貸してもらえるとは思っていませんでしたが、三人の兄たちはやりくりをして四十万円を貸してくれました。会社には簡単に事情を説明し、スーパーバイザーであったことも考慮してもらい休暇を得ることができて、四十万円で引っ越し費用すべてが賄える物件探しを始めました。
ようやく見つけた物件は、二つの部屋がありましたが二つの窓には大きなひびが入り今にも割れそうな窓でした。網戸も破けて、部屋を仕切る引き戸も隙間ができるほど歪み、畳も古いままで、全住民の方が退去したままの掃除がされていない状態での物件でした。
唯一救われたのは日当たりが良いことです。一見、愕然としましたが、惨めさより家が見つかった安堵感のほうが大きかったです。しかし私のお給料からするとまだ高すぎる家賃でした……けれども退去日は決定していますし、もうここに住むしかない状況です。
私は藁にも縋る思いで四月のまだ寒さの残る雨の降る日の夕方に、家賃を一万円でも下げてもらえないだろうかとお願いするために大家さんの元へ出かけました。ベージュのコートのポケットの中で勇気を出すために握りこぶしを作り、「土下座をしてでも下げてもらわなくてはまた同じことの繰り返しになる。」と自分をはげますように呟きながら、緊張感と惨めさと戦いながら大家さんに会いに行ったのを覚えています。
きっと嫌な顔をされるであろうとの私の予想とは反対に、大家さんは温和にご夫婦で迎えてくださいました。さらに事情を説明し頭を下げると「お互い様」と穏やかに仰せになり一万円さげてくださったうえに、お土産にマカロニサラダを渡してくれました。大家さんには今でも感謝しています。
浮足立って自宅に帰り食べたマカロニサラダはほんのり甘い味がしました。引っ越し当日私たち家族は夜逃げ同然で引っ越し、子どもたちも、いやいや引っ越しはしたものの笑顔でいてくれたのが嬉しかったです。
引っ越し業者の方はあれよあれよという間に手際よく思い出の詰まった家具などを道具のようにトラックに積み込んでいきます。
作業なので当たり前といえばそれまでですが、心境としてはもっと大切に扱ってほしい、すべてが私の思い出で大切な家族と過ごした空間なのに、とだいぶ苛立ちを覚えていました。
さあ新たに三人と犬一匹の家族の暮らしが始まりました。日当たりはいいのですが、気に入っていた食器棚は置けない、子どもの勉強机も置けない。犬のケージも置けない広さ。結婚時代に購入したおしゃれなカーテンレールも取り付けられないお部屋の作りで、食器棚もカーテンレールも、断腸の思いで引っ越し業者さんの説明に従い破棄しました。
なんとも言い難い無念さがありましたが、それでも母子寮に入るより幸せでした。ところが数日後、どこから情報が漏れたのか自宅に人が来て、家賃の滞納分の支払いを求められます。それだけでなく次々と支払い命令の手紙も届きました。
でもめげるわけにはいきません。支払いよりまだ食べるだけで精一杯ですし、支払い命令の手紙は、破っては捨て破っては捨て、と兎に角生計を立て直すことに集中しました。
ここからがシングルマザーとしての本番なのですから、「やっと見つけた家での生活を
守るために頑張ろう」と誓ったのです。
生活が始まると会社に復帰はするものの、今度はなんと精神が壊れて退社。無念でした。
当時の仕事は作業工程の効率化を図るためにつくられた時間表があり、一時間経過するごとにExcelの表を1cm塗りつぶさなくてはなりませんでしたが、一時間は1㎝と分かっていても一㎝をどこまで選択すれば一時間なのか思考が回らなくなったのです。
上司から指摘を受ける毎日毎日は苦痛でしたが、働かなければ生活できません。他部署への異動を勧められましたが、その時の精神状態から退社を選択しました。
しかし、退社=お給料が入らない。契約社員でしたので、退職金などありません。途方に暮れるまもなく、電気、ガスは止まる、水道も止まる。食費もない。
ますます気持ちは沈むばかりで、鬱になりました。このころは現実逃避するかのように
いつも寝てばかりで子どもたちとコミュニケーションをとっていた記憶はありません。民生委員さんのお陰で生活保護を受けることができたものの、生活保護費だけでは足らず家賃と光熱費を支払えば残りはわずかです。
どうしよう、どうしよう、なぜ私だけがこんな苦労をしなければならないのかとの思いから、
この頃は死ぬことだけを考えて生活していました。
私は病院からもらった睡眠薬を多量に飲んで死ぬことを望みましたが、目が覚めてしまい死ぬことにも失敗。
それではと、お酒を沢山飲んで睡眠薬を多量に飲んでみてもやはり目は覚めて、やっぱり生きていました。
ここでようやく人は簡単に死ねないことを知るのですが、もう人生絶望の極みでした。何度電気が止まったことでしょう。がスも水道も……。電気が止まれば、「月灯かりが綺麗だね」と三人で励まし合い、ガスが止まると水風呂に入り、水が止まると「ミネラルウォーターで顔を洗うなんて贅沢ね」と言いながら過ごしました。まだ「笑ってそうだね」と賛同してくれる強い娘たちが救いでした。
誰かに助けてほしくて、ほしくて仕方がなかったあの頃。自分で選択した道なのに、相手を恨んだこともあります。いくどとなく涙で枕を濡らしたこともあります。
どうして私だけが、といたたまれず髪の毛をひっぱりワンワンと泣いたこともありました。下の子はまだ中学一年生。中学校はお弁当持参で牛乳代を支払いますがお弁当の材料費さえもないのです。だから作れない……お金がないから作れないとは言えずにいましたが、
どうしていたのでしょうね、あの頃。ただ担任であった先生は、給食前に下の子をそっと呼び学校にきている購買のパン屋さんのパンを買うための500円を度々、渡してくださっていました。
先生の温かみには感謝していましたが、子どもに言われました。「なんで先生が500円くれるの?友達にも聞かれるし恥ずかしいよ」胸がはちきれそうになりました、私何をしているのだろうかと申し訳なさと不憫さを感じたことだけ、覚えています。
しかし人間とは不思議なもので辛い経験を忘れてしまいます。或いは私の年齢がそうさせているのかわかりませんが、この後どうしたのか、500円はいただかなくなったことは思い出せても、どう対処したのかどんなに記憶を呼び起こそうとしても記憶が抜けているのです。上の子はといえば、歩いて三十分は掛かる場所までアルバイトをしながら、家計を助けてくれました。暗い夜道を思春期の子が歩いて帰るにはどんなに怖かったでしょう。
自転車を買えばいいと思われるかもしれませんが、自転車を買う余裕などありませんでした。また、あのころは、それすら頭になかったかもしれません。
ある日賄いのカツ丼を持って帰ってきてくれたのですが、嬉しかったですね、とても。
本人もお腹がすいていたでしょうに・・優しい娘に育ったことは嬉しかったですが、やはり不甲斐なさを覚え、今でもあのカツ丼の器を見るたびに当時を思い出し、お詫びをしたい気持ちになります。
これもまたある日の朝、私が目覚めると高校生にとっては大金であろう5,000円札が1枚と「食費に使って」と一行だけ書かれた手紙が机におかれていました。
涙が自然と流れてきました。申し訳なさ、5,000円の重み……おしゃれをしたい年齢でしょうに5,000円もの大金を渡してくれたのです。
下の子は夜間の高校にいきました。昼間の高校に行けばよかったのに、あえて自分で夜間の定時制を選び、自分でアルバイトをしながら四年間真面目に通い無事に卒業しました。
アルバイトのお給料は家計の足しにしてくれるような優しい子に育っていたのです。
そのころの食事はご飯にお味噌をおかずに食べていました。お米がなくなるとパスタを塩コショウだけで作り、野菜は安いエリンギと言う質素な食事でした。今でもエリンギは食べたくありません。今まで好きだったペパロンチーノもあの頃を思い出すので食べなくなりました。
そして5,000円札を見るたびに思い出すのです、あの時の有難さを。もう二度とお金に苦労する生活はするまい、と誓ったのは、この5,000円のお陰です。
冬になり着るものがない私に民生委員さんは見るのに見かねてコートを恵んでくださり、コンビニエンスストアでお弁当を何度も買ってくださいました。
死ぬことはできませんでしたので、今度は体を壊せば誰か助けてくれるかもしれないと思いました。
私の身長は156㎝ですが、食事を極端に減らしたところ35キロまで体重が落ちて、ケトン(栄養失調)が出ました。
けれども、当たり前ですが先生がお金を渡してくれるはずもなく、天から降ってくるわけでもなく、あるのは現実だけでした。
それでも馬鹿な私は、なぜ、私だけが苦労するのだろうと、とうとう私は15歳の頃の自分を思い出し、また手首を切るという行為をしたのです。
手首を切れば誰かが助けてくれ、この環境から逃げ出せると思ったのです。そうです。リストカットです。そして手首を切ることで子どもに甘えようとしたのです。「死にたい、もう嫌だ、こんな生活もう嫌だ、逃げたい。助けてよ。」と言いたかったのです。
誰に言いたかったのか、今では自分が自分に言っていたのだ、と分かります。しかしあの頃、それすらわからず子どもに甘えていたのですね。
小さな台所にあるテーブルに座っていた制服姿の上の子が、手首を切った私の姿を見て言いました。「あ、こいつやりやがった。」普段はこんな言葉使いをする娘ではないのに、子どもなりに傷ついたのでしょう。
荒い言葉で気持ちを表現することで、自分を保っていたのかもしれません。下の子は無言でした。
きっと、心を相当傷つけたのでしょう、三人が集まってもこの話題だけは今でも出てきません。私の左手にはいくつもの傷がありますが、子どもには事故だよと教えていました。
もしも娘たちがこの本を読む機会があれば、私が十五歳の頃から手首を切り現実逃避をしていたことを知ることになるでしょう。
また、私の弱さや愚かさを知ることになるのかと思うと、書くことに躊躇いもありましたが、
現在苦しんでいるシングル家庭の方々を思うと書かずにはいられませんでした。きっと私と同じように消えてしまいたいと思う瞬間があると思うからです。でも、生きてください。
私は、娘たちの言動をみてようやくここでハタと気が付くのです。そうだ、誰も助けてくれない、育てていくのは私で、当の私自身が、大黒柱になって一人で育てると決めたのだ、と。
「ひと様に後ろ指を差される生き方、育て方はすまい。」上の子が生まれた時に誓ったこと。これが私の教育指針であったことを思い出しました。
これは今でも私の要となる部分です。娘たちがいたからこそ、今生きている、こうして生きていられる私がいます。
私の生きがいは娘たちでした。そのことに気が付いた頃にはもう成人して飛び立ったあとでしたので、もっと早く気が付けば、当然ですが何か変わっていたかもしれません。
民生委員さんにも手伝ってもらいながら仕事を探し始めましたが学歴のない、職務経験が浅く何の取り柄もない私に仕事は見つかりません。履歴書の用紙代、面接への交通費だけで生活費が消えることのなんと虚しいこと。それに、面接までこぎつけても自信を無くしていた私が採用されるわけがありません。しまいには、せっかく面接までこぎつけた会社で「落とすために面接『される』」のでしょうか、と訊いてしまったのです。
男性の面接官は、厳しい顔で「誰も落とすために面接するのではない、そんなことを言っているとどこにも採用されない、二度と言ってはいけないよ」と叱ってくださいました。
結局採用はされませんでしたが、このお言葉は、私がスーパーバイザーとして働くうえで、部下を励ますときに「自分でダメだと思わないで、ダメだと思っているのは自分だけだよ。」と言い換えをしながら使っていました。
長く就職活動を続けやっと派遣社員として働けるようになると徐々に生活も落ち着いて、気持ちも楽になっていきます。私は、家計のためにもっともっと時給の良いところで働こうと時給の良いコールセンターを派遣社員として転々としました。お陰で私は様々なコールセンターを経験することで知識を得ることができ私の強みとなりました。
そういえば私は、初めて契約社員としてコールセンターで働いたときに、黒のベルベットの上下のスカートのスーツに白のブラウスを着たボブカットのまだ二十代と思われる女性トレーナーさんの素敵さに憧れていつか私もトレーナーになる。ビジネスマナー、話し方を教える人になるのだ、と誓ったことを思い出しました。
その方は、朝のワイドナショーで、「おはようございます。」と流れると、自分の声の調子を確かめるために、「おはようございます。」と返すのだ、と仰っていました。
このトレーナーさんと出会ったのが、私がビジネスマナーの講師を目指したきっかけです。
同じ会社の違うトレーナーさんは、びしっと黒のパンツスーツで決めてショートカットに軽いパーマをかけた厳しい女性トレーナーさんでしたが「会社を出て最寄り駅を出るまでトレーナーでいること、たとえ歓送迎会であってもトレーナーとしての言動をし、トレーナーとしての威信を保つように」と教えてくださいました。
立ち姿、立ち位置、手の動き、目線、質問のかわし方まで教わり、ここで私は研修講師としての学びを深めていきました。
してある日、講師を目指していたことを思い出させる転機となる職に巡り合います。
東京の御茶ノ水にあるコールセンターへ新入社員を送り出すビジネスマナー講師、電話応対講師の仕事です。
厳しいトレーナーに教わったことを思い出しながら従事していた講師業の楽しいこと楽しいこと。
キラキラした目で100%信じ切った目でこちらを見てくれる眼差し、教えを一生懸命受け止めようとしている姿、成長していく姿を傍で見守られる講師と言う仕事が好きで、輝いた毎日でした。
しかし講師という立場の厳しさを感じたある思い出があります。女性の社員さんが、肌が荒れて出社してきました。
何気ない気持ちで、「肌が荒れているね、どうしたの」と訪ねると「すみません」と謝罪し、次の日は肌あれを見事直して出社してきたのです。
どのような治療をしたのか聞いていませんが、「治してきました、昨日はすみませんでした」と、言っていました。
講師の何気ない言葉であっても、講師とは充分に注意をしなければならないことを学んだ出来事です。
そんな中、理由が見つからない腰痛が私を襲いました。くしゃみをすると激痛が走り、寝がえりも起き上がることも、靴下を履くことも用を足すことさえできず、体を動かすと激痛が走りました。
とうとう通勤電車の揺れだけで激痛が走るため、断腸の思いでこの憧れの講師の仕事もまた辞めることになるのです。無念でした。
数か月間、腰痛と戦いながら、また金銭的にも苦慮する生活が始まりました。
疾病手当が出たとしても、お給料の6割です。ようやくゆとりが出てきたのに、またいつものお金の苦労です。
なぜ、いつもお金の苦労ばかりがついて回るのか自分の人生を恨みました。この年齢にして、かつ親の立場でありながら産んでくれなければよかったのにと親を恨みました。
ここでも私は、死ぬこともできなかったくせに自責ではなく他責をする幼さが残っていたのです。母は四十四歳で私を産んでくれ大切に育ててくれました。当時であれば高齢出産で死にも直結する出産であったのに、なんて情けない子どもなのでしょうか。
その母も九十二歳になり、恨んでしまったことを悔やみ、親孝行らしいこともできないまま施設に入ってしまいました。お母さん、ごめんなさい。
話しはそれますが、私が中学校二年生の頃でしょうか。母は乳がんになり、手術のために入院しました。本来退院後は自宅で安静にしなければならいのに、父の仕事を手伝いに出たのです。
確かに実家は林業で、父ひとりでは大変です。
私も幼稚園に入る年ごろの前から山へ行っていました。
ある程度大きくなると、学校が休みの日は暗い内から家を出て暗くなるまで直径30cmはある大木を運んだりしながら父の仕事を手伝っていました。
しかしそれでもさすがに乳がんで退院したばかりの母が山に行くとは思っておらず、これで母が家にいてくれて甘えられるとばかり思っていました。
母はいつも父と一緒で父のことを一番にしていましたので、私は幼い頃から母と居たかったのに、またも父と仕事にいくなんて、と寂しさから「くそばばあ!」と暴言を吐きました。それでも優しい母は「そんなこと言って......」とそれ以上は叱ることも窘めることもせず、私から離れていきました。
第六章の上の子が言った「あ、こいつやりやがった。」に近いものがあるかもしれません。
腰痛が治った2014年頃、やはり講師がしたい。ビジネスマナーを教えたいと思い、ブログなど立ち上げて活動していましたが、お客様はいらっしゃいません。
仕方なくまた派遣社員としてコールセンターで働き始めるのですが、思い返せば、お客様がいらっしゃらないのも当たり前でした。焦っていたわりには中身がまだまだで、知識の不十分さが伝わったのです。現に私自身もまだ、ビジネスマナーに対して不安がありましたので、思い返せばこれでよかったのです。この活動が失敗に終わることで、私は転機を迎えることができたのですから。
集客に失敗した私はある会社に派遣社員として働き始めます。そこで五年間勤めることになるのですが、この五年間が私を成長させてくれました。
まず、辛抱が身についたこと、厳しい上司と信頼関係を築けたこと、会社の皆さんが信じてくれたことです。
この厳しい上司はそれはそれは厳しく、誤字脱字は許されず、「あなたの目はざるですか」と言われるは、ある時など二時間も立たされ𠮟咤激励を受けたこともあります。
三十分程度のお叱りなんて日常茶飯事でした。
悔しいから辞めてしまいたいと思ったことも一度や二度ではありませんが、当の上司が誠実で愚直な方で、ご指摘はごもっともでしたので、短気で飽きやすい私でさえもついていくことができました。
この五年間は会社の方が私ならセンターを任せても良いと信用してくださったお陰で、さらに電話応対に磨きをかけることができたうえに、次の職場となる大手の子会社の正社員として、約二年間働くことができるきっかけにもなったのです。
私を信用して「センターを任せても良い」と言ってくださった会社の方は女性ですが、長身ですらっとしていてとびっきり美しい声で、かつハリウッド女優さんの被るハットがよくお似合いになる会社の女性社員が憧れる大美人でした。
そしてもう一人の女性はお母様でしたがお仕事が早く、定時には仕事を終えて颯爽と帰宅なさる笑顔のチャーミングな方でした。
正社員の頃、資格取得制度を利用して電話対応にも必要なおもてなしの心を学ぶために、ある協会のおもてなしコンシェルジュの資格を取得しました。そして次にやっと念願だったビジネスマナー研修講師の資格を取得することができたのです。
憧れのマナー講師の資格です。その日は夢のようで嬉しくてワインを半分もあけてお祝いをし、直属の上司も自分のことのように喜んでくださいました。
なにより、私自身がビジネスマナー研修講師としての自信がつきました。
そして安定した大手子会社の正社員の仕事をやめることにし、本格的にマナー講師としての活動を始めると決意した私が今ここにいます。
私の最終学歴は中学校卒業です。コンプレックスがないかと言えばウソになります。二十四歳で当時の高校卒業程度認定試験を三回受けて英語と数学だけ落ち続けあきらめました。
子どもが幼稚園のころ、周囲のお母さま方は、大学の卒業旅行はどこに行った、サークルは何に入っていた、会社員のころはこうだったと話に花が咲いているとどれも経験のない私は、無言にならざるを得ませんでした。
また、熊本県出身の私は十五歳で神奈川県へ出てきましたので、出てきた理由やどこの高校だったの、と訊かれて困ったこともあります。私は結婚するまで四歳離れた兄と一緒に住んでいました。
当時十九歳か二十歳だった兄は、十五歳の私の面倒を見るために夢をあきらめ、昼間は電機屋さんの正社員として働きながら蒲田の夜間の専門学校を卒業しました。私のために夢をあきらめてくれた兄には感謝以外の言葉はありません。
幼稚園のお母さま方の中では一番若い母でしたが、学歴で引け目を感じていたのは事実です。ただ、学歴にコンプレックスを抱いていても、シングルマザーになったことに、後悔はありません。
後悔しているのは、二人の子どもに充分な成人式をあげさせることができなかったことだけです。親としての不甲斐なさ申し訳なさでいっぱいで、これだけが後悔です。
私の不甲斐なさを見て育った二人は自立していて、自分で着物を用意して式に出席するほどのしっかり者に成長していました。
成人式の日、二人とも「今まで育ててくれてありがとう。」と言い式に出発しました。
私といえば照れもあり上の子の時には起きていたくせに眠たそうなふりをしてお布団の中で「いえいえ」と答えたと記憶しています。
この二人の娘はどこに出しても恥ずかしくない私の自慢の大切な大事な二人です。
どうか幸せになり、私のような人生は歩まないでほしいと願うばかりです。
私の生き甲斐であった二人の娘たち、「今までありがとう。」は、私がいう言葉ですよ。
私が成人式にこだわるのは、式に出ていないからかもしれませんが皆さんには、私のような後悔をしていただきたくないので、成人式までには生計を立て直し着物だけは用意をしてさしあげてほしいです。
私の親も、きっと私の振袖姿、ウェディングドレス姿を見たかったでしょう。ごめんなさい。お父さん、お母さん。
私はどちらも見せることができませんでしたが、私は今、ようやく蝶になり、蜜を吸える道を飛び始めることができるようになりました。また話がそれましたが、元にもどします。シングル家庭でもあきらめずにいれば、必ず道は開けるのではないかと自分の人生をとおして実感しています。
不思議なことですが、なげやりにならず人生を振り返ることで、本来やりたかったことに気が付け、そして必ずそこには手助けをしてくれる人が現れます。
ただ子どもは否応がなく二十歳になり、勝手に育ち飛びたちます。本来、親は子どもが自立できるようにするのが役目ではありますが、飛び立った子どもたちを見るとあの苦しかった頃が懐かしくもあり、帰ってきてほしいと願う日もあります。
渦中にいると出口の見えない螺旋階段にいるようですが、母として、父として、強くあり、シングルマザーだろうが、シングルファーザーだろうが、自信をもって生きてほしいです。
そして子どもはいつしか唯一無二の味方になってくれています。
昔母に言われた言葉があります。ジェンダーの時代にはふさわしくないかもしれませんが、「女は弱し、されど母は強し」まさにその通りで女性としては弱い私ですが、母としては強くあれたと思います。
この言葉は苦しかったあの頃の支えでした。皆さん、どうぞ苦しくても子どもが成長する日は必ずきます。また自分の中の「いつか」も必ずきます。一人ひとり「いつか」は異なりますが私の「いつか」はマナー講師として再出発をする今です。
人生卑屈にならずあきらめないで耐えてでも今苦しい時を精一杯生きてください。そしてシングルマザー、シングルファーザー、貧困家庭で育っているお子様方も、20歳になればどんな家庭からでも、自由に羽ばたけることを認知してください。自分を蔑むことはやめてください。
子どもだから何もできないのではありません。一人で悩んでいても視野が狭くなるだけでよい解決方法はみつけづらいです。
苦しい渦中にいるのであれば、「助けて!」と周りに誰でもよいのでSOSを出してほしいです。
物理的には一人でも、本質的には一人ではないと気が付けば、私のように遅咲きにならずに、蝶になれますし、きっと助けてくれます。
「最後に・・・」唯一自分と言う存在を、またこの時を否定せず、あるがままの時を受け入れましょう。繰り返しになりますが、今がどんなに苦しくても、ゆっくりと時は流れます。
流れる時の中でいつかきっと変わるのだ、良い方向へもっていくのだと意識してさえいれば、必然的に「変わるとき」が来ます。
私の例に例えるならば五年間務めた会社です。
この五年間があったからこそ、最後の二年間に正社員になれマナー講師の資格が取れたのです。
そして、「中卒でシングルマザーで貧困であった私」でさえ、マナー講師になれました。何より、死のうとしていた私が、今、蝶になりたくて生きています。
今、貧困で挫折している、シングルで苦しくて独りぼっちと思われているのであれば、どうぞ、ご遠慮なくご相談ください。Facebookからでもブログからでもお話しください。
ビジネスマナーをお伝えすることで、就職につながる可能性もあります。電話対応をお伝えすることで、スキルに繋がる可能性もあります。
残念ながら飛んでいくことはできませんが、つながることはできます。
私は、たくさんの方々が支えてくださったように今度は私が恩送りをしたいと考えて活動しています。
まだまだ、何もできませんが、この自伝が皆様の心のどこかの何かを触発できれば幸いです。そして生きる力になれば、こんな嬉しいことはありません。
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