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自分を楽しませてあげて

人との会話で一体何が生まれるのか。

高校時代の時は友達とおしゃべりすることが好きで、とにかくずっとしゃべっていることが多かった。

でも大学に入って、いろんなコミュニティを持ち、「会話」そのものに疑問を持ち始めた。


高校時代の私がなぜ会話することが好きだったのかというと、自分の話をするのが好きだったからだ。
自分の失敗談や過去の話、感動した話をして、それに対してみんなが反応してくれるのがうれしかった。

大学に入って、最初に2人友達ができた。
2人ともおしゃべりが大好きで、交代で自分の話をしていた。
でもいつからかそれをたのしいと感じれなくなってしまった。

理由は、私含めた3人が自分の話をしているからである。

高校の時と何が違うか。

それは、会話においての「役割分担」ができていないということである。



会話は「聞き手」と「話し手」が必要である。

そのバランスが取れているコミュニティがきっと居心地がいいのであろう。

それに気づいてから、会話を素直に楽しめなくなった。


今は相手のターンだから、自分は相槌をうっておこう。
ある程度相手の話が終わった、沈黙になってしまうかな?自分が話すべきだ、みたいな。

こんなに考えながら話してて何が楽しいのかわからなくなってきた。

きっとこんなことを考えながら話している時点でその人とのコミュニケーションの相性はあっていないのだろう。


1人が話す。
それに対して反応する。
質問する。
相手が答える。
それに関連した話を私が始める。

これで会話はあっているのか?

相手は私と会話することで楽しめているだろうか?
この時間を無駄にはしていないだろうか?

それだけでない。


自分は今会話している時間を意味あるものにできているのか?


私の男友達が最近、私の女友達に片思いしている。

2人が遊びに行った後に、たのしかった?と聞くと
2人とも迷いもなく楽しかったという。


私から見た2人はまぶしすぎる。


なんの話をしたの?と聞くと覚えていないという。

覚えていないのだ。

楽しかったのに。

楽しかったから。


私もおしゃべりが好きだった高校時代を思い返すと、何の話をしていたのか思い出せない。

それは本当に楽しかったからだ。


今の私は「楽しみ方」を見失ってしまったのだろうか。

だとしたら、私は自分のために何をしてあげられる?


この世の中は人に支えられて出来上がっているといわれたことがある。

私は支えられているだけであって、誰かを支えられているのだろうか。

自分のことを自分自身で支えられていないのに。

19年生きてきても自分のことすら理解していない。

まずは自分が快適に暮らせる環境を自分に提供してあげたい。

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