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ポスト団塊の回想オールディーズ                               【ポップス編】

🌈
 9月に入っても猛暑は続いているとはいえ、台風一過の後の朝夕の涼しさはすでに秋の訪れが近いことを伺わせる。
 僕にとっての夏の終わりを告げるのは何故かいつもこのメロディだ。

  大滝詠一 『君は天然色』
          
(1981年)

 そして、大滝詠一のメロディは、聴く者を懐かしいオールディーズの世界に誘う。
 昔の思い出話に耽る趣味は持ち合わせていないが、オールディーズ・ポップスに浸る幸福感は別ものだ。

🌈🌈
 今でこそクラシックしか聴かなくなったが、僕の音楽的記憶の原風景はアメリカンポップスだ。
 かなり幼少の頃(小学校低学年)に遡る。

『アメリカン・グラフィティ』
サウンドトラックのカバーより

 1960年代の初期だから昭和の高度経済成長期の最中で、テレビやラジオは歌謡曲全盛の時代だった。
 しかし子ども心には日本の湿っぽいマイナー調の歌謡曲は何とも野暮ったく古臭く、およそ心惹かれるものではなかった。

 それよりも、近所のお兄さんやお姉さんたちに聴かせてもらうレコードやラジオのFEN(米軍基地放送)から流れてくる軽快でハッピーなアメリカンポップスの方が心地よく、いつしか洋楽のとりこになった。 


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 当時を知らない世代の方でも、どこかで耳にしたことがあるだろう。

 チャック・ベリー
 " Let's Twist Again "

ポール・アンカ " Diana "

 ニール・セダカ " Oh! Carol "

 これらの音楽は、当時のアメリカでは中流階層のお坊ちゃん、お嬢ちゃん向けの甘ったるい「ティーンズ・ポップス」と揶揄され、ジャズやロックンロールよりも下に見られていた。
 それでも戦後日本の貧しい片田舎に暮らす僕たちにとっては何ともいえずお洒落でキラキラした世界を垣間見させてくれたことを鮮明に覚えている。

 やがてヨーロッパでもフレンチポップスやイタリアンポップスが花盛りとなり、海外への憧れが果てしなく広がっていった。

シルヴィ・ヴァルタン(フランス)
 「アイドルを探せ」(1964年)

 ポビー・ソロ(イタリア)
 「頬にかかる涙」(1964年)

ジリオラ・チンクェッティ(イタリア)
「夢見る想い」(1964年)


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 その「ティーンズ・ポップス」が、やがてイギリスにおいて勃興するビートルズなどリバプールサウンドの下地となる厚みのあるサウンドへと進化していった。

ザ・ロネッツ " Be My Baby "


  後のことになるが、この60年代アメリカンポップスのエッセンスは、同じように幼少期にその影響を受けたと思しき世代の日本のアーティストたちによって受け継がれ、70年代から80年代以降のJポップやシティポップへと流れ込む。
 和声進行やサウンドづくりにその遺伝子が明確に受け継がれていることが読み取れる。

 浜田省吾 「路地裏の少年」


 ユーミン 「ルージュの伝言」


 佐野元春 「サムデイ」



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 中学生になった頃、リアルタイムでビートルズやローリングストーンズの誕生に遭遇することになるが、それについてはすでにあちこちで語り尽くしたので、ここでは割愛する。

 ザ・ビートルズ
  " Don'tLet Me Down "

 ザ・ローリングストーンズ
  " Satisfaction "

 高校生だった1970年、ビートルズの解散と共に僕のポップス人生は燃え尽きる。
 
 その後はアバやノーランズの華やかなサウンドを遥か遠くのBGMとして聴きながら青春は去って行った…


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 •••  と、ここまで書いてきて、ふと淋しくなった。自分の人生において日本の音楽がほとんど何の位置も占めていない……

 ほんの僅かながら記憶に残っているとしたら、これかな。
 何れもアメリカンポップスの流れとは無縁の、やはり湿っぽい曲ばかりだ… :⁠^⁠)

岡林信康 「友よ」(1969年)

 フォーククルセダーズ
「悲しくてやりきれない」(1968年)

 森田童子
 「みんな夢でありました


 みんな夢でありました

 みんな夢でありました・・・

森田童子
1952年1月生まれ 
 2018年4月逝去(享年66歳)


 僕たちの青春はそういう時代だった。
「団塊の世代」の後に生まれ育った僕たちは何においても興が冷めた傍観者のように振る舞う「シラケ世代」と呼ばれてきた。

 だが、それについて語り始めると長い思い出話になってしまうので、ここまでにしておこう。



※  ヘッダー画像は森田童子のアルバム『グッド•バイ』( ユニバーサルミュージック)のカバーより転載