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アルヴォ・ペルトの世界~「アリーナ」

エストニアの作曲家アルヴォ・ペルト (1935-) による絶美な音空間。ECMレーベルによる水面のような美しくシンプルなジャケットが印象的なアルバム。2種類の編成による「鏡の中の鏡」(3つのヴァージョン)と、ピアノ・ソロによる「アリーナのために」(2つのヴァージョン) が収録されている。



沈黙の次に美しい音楽」というコンセプトを掲げたECMレーベルは、その概念に相応しいアルヴォ・ペルトの作品集を何枚もリリースしてきたが、このアルバムはある意味「極めつけ」である―切り詰められた音楽とその編成において。そして僅か2曲ながら、異なる演奏ヴァージョンを収録することで、「無限回廊」に誘い込まれたような錯覚に陥るほどである。

ペルトのような神秘的で美しく、悲劇的な作風は僕の好みだが、不思議と手元には残らなかった。一時期「所有し、手放す」の繰り返しが幾度と続いたこともある。あまりのシンプルさに退屈してしまったのかも知れない―この世にはもっと刺激的な音楽(演奏)が満ち満ちているからだ―が、心のどこかで静かに流れていて、ある瞬間(場面かもしれず、風景や匂いかもしれない)、ふと顕現するのだ…。

このアルバムも数度購入したものである―テクノが好きな知人にプレゼントしたこともある。お気に入りの1枚になった、と喜んでいた―。「アリーナ」を初めて聴いたのが当盤であり、そういう意味では僕にとっても「思い出のアルバム」なのだ。「記憶」というのは曖昧になりがちなもので、僕は演奏時間が20分ほどだと思っていたが、実際は10分であった―もっとも、即興による2つのヴァージョンが収められているのでトータルで20分なのだが―。このピアノ・ソロを挟み込むように配列されているのは「不思議の国のアリス」を連想させるタイトルの「鏡の中の鏡」である。ヴァイオリン&ピアノ版が両端に配置され (2度演奏され、同一音源ではない) 、真ん中にはチェロ&ピアノ版の演奏が置かれている。僕が最初に聞いたのはクレーメル盤で、伴奏はピアノではなく吉野直子によるハープだった。実にたおやかで夢幻的なサウンドだったが、クレーメルの時折軋むヴァイオリンが耳障りでもあった。幸い、今回のウラディーミル・スピヴァコフの演奏ではそんなことはなく、安心して音に身を委ねることができる―。

ペルトの最初のアルバムとなった「タブラ・ラサ」。「フラトレス」ではキース・ジャレットがクレーメルと初共演を果たす。シュニトケも演奏に参加。

「タブラ・ラサ」(1977)~第1楽章「Ludus」(ラテン語で「ゲーム」の意)。クレーメルによる再録音盤。

「カントゥス―ベンジャミン・ブリテンの思い出に」(1977)。ロジェストヴェンスキーによる熱演。

ピアノ三重奏のための「モーツァルト―アダージョ」(1992)。K.280のアダージョによる。オレグ・カガンに捧げられている。

ECMの創設者マンフレート・アイヒャーがセレクトしたペルト作品集。作曲家との共同作業によって、アルバムは成立している―。



アルバムの最初と中間、そして最後に収められた「鏡の中の鏡」(1978) はペルト作品の中でも人気が高く、少なくとも11種類のヴァージョンがあるようだ。ここで必ず出てくるのが「ティンティナブリ様式」。作曲家自身による命名とされている音楽スタイルで、ラテン語「tintinnabulum」に由来、「鐘」を意味するらしい。宗教音楽がベースになっていて、シンプルなフレーズとリズムがミニマルに紡がれる (よく僕たちは、作曲家の音楽スタイルを「カテゴライズ」したがる。シュニトケは「多様式主義」、ドビュッシーやラヴェルは「印象主義」というように―でも作曲家自身はそう呼ばれることを望んでいなかったケースが大半である。僕たちは音楽を勝手に分別して、解った気になっているだけなのだ )。

タイトルが詩的で興味を注がれるが、「モモ」や「ネヴァー・エンディング・ストーリー」で有名な作家ミヒャエル・エンデの作品にも同名の小説「鏡の中の鏡―迷宮」がある―関わりはないようだが―。「鏡に映った鏡は何を映すか?」という禅問答をきっかけに展開してゆくシュールレアリズムの小説のようだが、色々想像できて面白い。「鏡の中の鏡」は日本でいう「合わせ鏡」のことだろうか。鏡の大きさによるが、無限に続くかのような「像」を鏡の中に見出すことができる (それにオカルト的な意味があることはご存じであろう。シューマンが知っていたなら喜んで実験したかもしれない )―。


何かが深く複雑に広がってゆくと、今度はそれに統一を求めたくなる。その時、極めて重要な物以外は搾り取られ、少数の最も重要なものだけが完全な物として残る。そして残ったその極めて重要な音、たった一つの音符が美しく響けばそれだけで充分だ、ということを私は発見した。

― アルヴォ・ペルト


最初と最後のヴァージョンはオリジナル編成のヴァイオリン&ピアノ版。演奏者のウラディーミル・スピヴァコフに献呈された作品でもある。約7秒の沈黙のあと、セルゲイ・ベズロードヌイによるピアノの前奏から始まる…。トラック1 (ヴァージョン1) の演奏は10分半を超えるのに対して、トラック5 (ヴァージョン2) の演奏は10分を満たない演奏時間で、後者の方がテンポ設定が早めであることがわかるが、聴感上はそれほどの違いはない―もっとも、アルバムの最後になると、リスナーの側がトランスモードに入っているものだから、時間の感覚など関係なくなってしまう―。両者とも淡々と、しかしじっくりと奏でているのが好ましく、想像の翼を羽ばたかせるスペースを十分に与えてくれる。

中間に位置しているトラック3はチェロ&ピアノ版。ディートマール・シュヴァルク&アレクサンダー・モルターのデュオで演奏されている。9分台の演奏タイムなので、先程より僅かに早めのテンポだ。朗々と響かせるというより、言葉にならない囁きのようにも聴こえる。中低弦で「音を置く」かのように奏でるチェロの音色は、アルバムの中でも良いアクセントになっていると思う―。

(スピヴァコフは2014年、ウクライナ併合に関するプーチンの政策を支持する側だったが、現在ではウクライナ侵攻の抗議の書簡に署名し、反対の立場を表明している)

前述のクレーメル&吉野直子によるヴァイオリン&ハープ版。

当盤の音源より~チェロ&ピアノ版。Roberto Rampinelliの絵画とともに。

トム・ティクヴァ監督作/映画「ヘヴン」(2002)。「ラン・ローラ・ラン」や「パフューム ある人殺しの物語」で有名な監督だが、音楽の選択も秀逸だ。

スピヴァコフ&ベズロードヌイによるラフマニノフ/「ヴォカリーズ」。ペルトのあとに聴くと現実に引き戻される思いがする―。



トラック2と4に収録されているのはペルト/「アリーナのために」(1976)。家族関係が決裂し、父親とともにロンドンに住むことになった18歳の娘アリーナに捧げられたという、このピアノ小品―曲に込められたのは母親側の気持ちのようだが―。僅か2ページのスコアの作品で、ロ短調の響きに悲痛さが感じられる音楽である (僕が片親家庭で育ったから潜在的に惹かれるのだろうか) 。テンポの指定も繰り返しの指示もなく―唯一の表記は「Ruhig, erhaben, in sich hineinhorchend」とある―、演奏者によって任意にリピートが施されるケースが多いようだ (この演奏では10分ほどにまとめられているが、長いので20分に及ぶ演奏もある) 。
そしてこの曲から、前述の「ティンティナブリ様式」での作曲が始まったとのことなので、ペルトにとっても意味深い作品といえるのかもしれない。ちなみにタイトルはベートーヴェン/「エリーゼのために」との親和性を感じるが、勿論関連はないようだ。どちらもピアノ初心者が取り組みやすい作品だが、耳の良さやバランス&響きの感覚が求められる。ウィキペディア英語版にも「注意書き」が添えられている―心したい指摘である。

ポゴレリチによる「エリーゼ」。技術を超えた先にある「世界」が見える―。僕は切ないコーダが好きだ。


このアルバムでは2つの演奏ヴァージョン (どちらも10分台) が収録されているが、アレクサンダー・モルターが数時間かけて弾き込んだ数々のテイクからペルト自身がこの2つに厳選したようである―実際ペルトはこのアルバムのために演奏&録音に立会い、監修をつとめている―。どちらも余韻を大切にして一音一音を慈しむような演奏で、オクターヴ上げてリピートされる時の叙情性には胸を突かれる思いがする。ヴァージョン2の方がより自由な即興がなされ、低音部に工夫が聴かれる。

ベネット・ミラー監督作/映画「フォックスキャッチャー」(2014) で当盤がサウンドトラックとして用いられている。おそらくヴァージョン2を編集した音源と思われる。

ペルトによるマスタークラスから。「アリーナ」を例にレクチャーしている。

パット・メセニーによる42弦ギターによるヴァージョン。深遠な雰囲気―。

アリス=紗良・オットによる演奏。彼女が多発性硬化症と診断された時期に向き合った作品なのだという。「自分の身体の発するあらゆる信号を細心の注意を払って聞き取り意識しなければならない」状態が作品とリンクするのだそうだ―。

一歩一歩未知の空間に踏み入る時は細心の注意を伴います。そうして初めて私たちは自分たちの内に潜り、耳を傾け、意識する。こうしたこと全てがペルトのこの脆く繊細な作品には見事に捉えられています。

 アリス=紗良・オット


アルバム「Alina」に対する海外リスナーのレヴューには興味深い表現が並ぶ―「秘密の窓が開く」「夢への切符」「漂う玉虫色の光の泡」「幸福な思い出―夢のような怠惰の空間」「重力から解放された音楽」「無限の甘さ」etc…。どの言葉に共感するだろうか―。
僕たちの心には何が去来するのだろうか…。

気がつけば、そこに「在る」ような音楽―。
しかし一度耳を傾けると、音と心が反響し合い、光が差し込み、時間が静止したように感じる音楽。
演奏する者、聴く者は自然とインナーセルフと向き合うことになる…。

3つの「鏡」と2つの「アリーナ」…それぞれを体験した後の僕たちは、それまでの僕たちと何か違いがあるのだろうか―少しでも良くなっているといいのだが。たとえ1ミリでもいいから。

I could compare my music to white light which contains all colours. Only a prism can divide the colours and make them appear ; this prism could be the spirit of the listener.

― Arvo Paert


当盤音源で全曲を―。51分18秒。






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