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【伝説Re:01】「真名野長者伝説」⑥生と死

暫くして、般若姫が都へ旅立つ日となった。

皇子の言う通り、幼い玉絵姫を長者夫婦に託し、大小の船百二十隻、千人余りが同行して豊後臼杵が浦より出航した。

長者夫婦は般若姫との別れの際、一寸八分の黄金の観音像を手渡した。

出航してから順調だった天気は、周防の国の平群島付近で大暴風雨にあい、多数の人が死んでしまった。

嘆き、悲しんだ般若姫は、自ら荒れ狂う海の中に身を投げた。

すると、海は穏やかになり、雲がスーッと消え去り太陽が輝いた。

般若姫は、海から引き上げられた。

しかし、間も無く息を引き取ってしまった。

姫は、死ぬ間際、「あそこに見える山に葬って下さい」と遺言を残した。

姫の訃報を聞いた長者夫婦は、とても悲しみ、臼杵に石仏群を作った。

後に橘豊日皇子は、用明天皇となった。

天皇は姫の遺言により、瀬戸内海を一望する「神峯山」の頂上に、「般若寺」を建てた。

また、般若姫が入水した近くで、大漁の魚の中に金色に光る魚の腹の中から、一寸八分の黄金の観音像が出てきて、聖徳太子のもとに届いた。聖徳太子は、もとに戻すべきとして、長者へ送った。現在も内山観音で保管されている。

用明天皇は、聖徳太子の父親でもある。聖徳太子は、類い稀な能力の持ち主である。

以上が真名野長者及び般若姫伝説です。

長文お読み頂きありがとうございました。少しでも多くの般若姫伝説ファンが増えることを願っています。

地元の50歳以上の人は、この伝説を知っていましたが、20歳代の人は知りませんでした。とても残念なことです。では、また。

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