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第3回宗教理解増進勉強会【上】|キリスト教の中川牧師に参加頂きました

12月16日に「第3回宗教理解増進勉強会」を行いました。参加者は16人。学生・青年が8人、壮年、夫人が8人参加しました。

過去2回は家庭連合(旧統一教会)2世の学生たちと意見交換をしてきましたが、今回は主の羊クリスチャン教会の中川晴久牧師の参加をいただきました。

参加者からは「とても有意義だった」との声があり、内容も充実していたので、いくつかに分けて掲載します。今回は中川牧師がお話しされた内容をまとめました。以下です。


「気づき」とは

「対話」は違いを知り、その違いから学んで「気づく」ことが大切。その「気づき」は自分ではないもの。つまり「神様が与える」もの。だから多く気づかされることが感謝になる。

反省、悔い改めは「気づき」となり、それは神様と出会う場でもある。自分が正しいと言った時には気づきがない。「こうじゃないかな」となった時に気づく。「気づき」は外から言われても気づかない。

本質を見極める

これからの話は、「キリスト教」と言うのを、皆さんは「家庭連合」と置き換えて、考えてもらえればと思う。

カトリック神学者のハンス・キュングは、キリスト教の本質を見極めようと考えていた。

キリスト教の源泉は何か。その核心は何か。基礎となってるものは何かと。

その時に理想像に走ってはいけないし、敵対像に走ってもいけない。

理想像として、「キリスト者とはこういうものだ」と理想を掲げて、腐ったミカンを取り除き、枯れた枝を切っていくことで有機的に実りよいキリスト教になっていく、という考えはよくない。

敵対像もよくない。敵視する人は、キリスト教の影しか見てない。そういう人たちには影絵芝居しか見せることができない。

だから世間は、家庭連合さんの影絵芝居を一生懸命見てるのだと思う。

そこで「半分の真理は半分の偽りである」というキュングの言葉がある。

キュングが言うには「見えるものと見えないものがある」。見えないものが本質的なもので、見えるものは形。見えないところに本質的なものがあるが、非本質的なものも形の中にある。キュングの言い方をすると、「最も聖なるものの中に最も非本質的なものがうごめいている。見えないものがうごめいている」。

暴れていた子の本当の心のうち

こういうことがあった。児童養護施設に大変な子がいて、どうにもできないということで、僕の教会に来た。暴れ回る子だった。でもその子たちから最も教えられた。

礼拝中に僕が説教をしてる時、その子たちは椅子の上を飛び歩いたりする。だから腹が立つけど、先代の牧師がこう言った。「彼らは2歳の時にタバコの火をつけられたりした。児童虐待にあっていた。それで施設に預けられた子たち。だから『熱い!熱い!』と言って、飛び回っているんだ。今も、だから飛び跳ねている。そう見ないといけない」と。

その言葉に「あー、そうだな」と。僕たちが見るのは礼拝中に飛び回ってる子だけど、その子たちの本当の心のうちで飛び跳ねてるものは何なのか、それを見ないといけない。

それで、飛び回る子たち5人ぐらいを真ん中に集めて、丸くなって礼拝するようになった。

そうしたら、おとなしくなった。どんどん変わっていって献金も彼らの全財産を入れちゃう。ぱっと入れてね。それで「やばい!献金入れちゃったから、帰り電車に乗れない」と言う。でも、電車賃を貸してとかは言わない。「いや俺たち歩いて帰れるから」と。1時間、2時間かけて歩いて帰る。だから学ぶことがもの凄くあった。

彼らはキリスト教の児童養護施設に預けられていたから、日曜日に礼拝に行くんだけど、それが一番嫌だったんだと。無理やり行かされるから。それで礼拝の時に「献金入れ」が回ってくると、そこからお金をくすねたりしていた。それで教会に出入り禁止になって、行くところがなくなって、うちに来た。それなのに献金しまくるようになった。

だから本当のところを見極めていかないとと。

見えないものと、見えるものがある。形あるものも、その中に本質があって、その形あるものの中に汚れたものもある。何を僕たちが見るかということ。

宗教間対話

宗教間対話について、キュングは「信仰の二重国籍はあるか」と問いかけた。「仏教徒であり、キリスト教徒であることが可能なのか」と。可能であれば、どう正当化されるのかと。

キュングは文化的二重国籍、倫理的二重国籍、信仰的二重国籍の三段階に分けた。

「文化的二重国籍」は、日本人だとクリスマスを楽しみ、正月に初詣したりとか。クリスチャンも正月に喜んでお餅食べたりする。クリスチャンではない仏教徒もクリスマスを祝ったりする。だから「文化的二重国籍はある」。

「倫理的二重国籍」はどうか。宗教的二重国籍ともいうが、これもある。仏教徒、キリスト教徒という宗教の教界線が倫理の境界線ではない。

宗教がキリスト教と仏教に別れていても、倫理とか宗教の教えにおいは、大きく重なっている。だから宗教の教界線が宗教の教えの境界線ではない、と明確にすることで宗教間対話ができる。

三段階目の「信仰の二重国籍」があるかと言うと、これはない。キリスト教徒はキリスト教徒、仏教徒は仏教徒。それがカトリックの宗教間対話では根底にあるようだ。

キリスト教徒の信仰は奥深い部分。家庭連合さんだったら文鮮明さんとか。それで「信仰の二重国籍はない」と。もっと言うと「信仰に集中せよ」と言う。

だからキュングは、「キリスト教的集中」という言い方をする。「キリスト教徒は神に集中しなさい」と。

その軸があるからこそ、他の宗教と触れ合いを持った時に対話ができる。その時に相手の宗教、信仰を尊重して、こちらもしっかり信仰を持っているし、相手もそうだから、対話をすることができる。

それをやったのがマザー・テレサ。

マザー・テレサは「イスラム教徒はイスラム教徒のままで。仏教徒は仏教徒のままで」と言っていた。そういう点を一部の牧師は「マザー・テレサは伝道をしない」「福音を伝えてない」と言ったりしてた。でも実は、マザー・テレサは多くのキリスト教徒を獲得した人だと思う。彼女こそ最もキリスト教を伝えた人物ではないかなと思う。

家庭連合さんが、「宗教を宗教として、信仰を信仰として大切だよ」と語れば、むしろ家庭連合さんはもっと輝く。

家庭連合さんには、宗教界の先人を切ってほしい! 文化の先陣を切ってほしい!

真価があると思っているので。真価を発揮してほしい!

(文責・とも)

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