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宗教者として提案できる問題解決|第7回宗教マイノリティ理解増進勉強会【下】

4月27日に行った「第7回宗教マイノリティ理解増進勉強会」には、家庭連合(旧統一教会)の信徒25人、主の羊クリスチャン教会の中川晴久牧師、他の新宗教の信徒ら計28人が参加。「信者の人権を守る二世の会」と私が「宗教二世」をテーマに発表した後、参加者間で活発な意見交換が行われました。

以下は意見交換内容の要旨です。

過去をどのように捉えて生きていくのか

B男くん(家庭連合信徒、大学生)
親子の問題、家族の問題が大きいというのを聞きながら思ったのは、結局、宗教二世が信仰を持つ持たないの選択が、自分が幸せに感じたりとか、家族が、例えば、すごく良い親で、自分のことをすごく大切にしてくれて、そういう親のことは聞きたいなと思って、信仰を持つ選択をする場合は、結構あるんじゃないかなと思いました。

良い考えとか教えだったとしても、それを強制して言われたら警戒心を持つし、されたくないけど、すごく大切にしてくれている親から言われれば、したいなと思ったりするので、結局は、その二世が悩んでる、抱えてる人間関係の問題とかに向き合っていくことが、すごく大事だなと思いました。

A子さん(二世の会副代表)
家族の問題って話があったと思うんですけど、今まで、ずっと発信とかしながら、取材とかたくさん受けましたけど、私の方から「家族の問題ですよね」みたいなことは一度も言ったことがなくて。

そう言うと、「そういう問題で一括りににしないでください」という反発とかありますし、「宗教二世問題」に対して、「宗教ならではの問題があるのでしっかりと向き合ってください」って言われると思うので。

さっきも「とも」さんが言ってくださったように、押し付け合いになってる現実があるなと思います。

例えば、今まで聞かされてきた教義が正しいと思って生きてきたけど、ある時、「間違ってる!」というような価値観を押し付けられた時、不安になるし、辛く感じるし、今まで自分が親から言われてきたこととか、教会から言われてきたことは、間違ってたんだとか、今まで教会で感じてきた良い経験とか、そういうものも間違ってるんだ、というような価値観になった時に、辛く感じるし、それは宗教ゆえの、教義ゆえのっていうところもあるのかもしれないけど、そういうものを否定される辛さはすごくあるなと思います。

そうなると、解決策がシェルターだとかいう話になってくると、ますます間違ってたとか、ますます親との隔離が進むとかなってしまって、過去の良い経験も、宗教で体験してきた良い経験も全て否定せざるを得なくなる辛さみたいなのはホントに辛いと思うんですよね。

なので、価値観の押し付け合いでは絶対解決できない問題で。

私としては、良い経験とか、教義の内容でも良いものがあったからこそ、それを思い起こしたりして、否定せずに受け入れて生きていくことをしていきたいし、それをどう人生の上で大切にしていくかという方向にしていかないと、問題の解決が難しいだろうなって思うんですよね。

宗教に限った話ではなくて、どうケアしてあげるのかという、過去をどう捉えさせるのかというのは本当に重要なところじゃないかなと思いました。

C男くん(家庭連合、大学生)
意外とシェルターの提供っていう考え方は一つ参考になるのかなと思っていて。何か虐待されたとか、宗教的な理由で負の想いを、傷を抱えている人がいるのは、やっぱりいて、そういう人の良き相談相手になってくれる人は必要なのかなっていうのを思っていて。そういう意味で、サポートしてくれる人、そういう機会を作ってあげるっていうのは大事だなって思いました。

小嶌希晶さん(二世の会代表)
私もお二方に激しく同意なんですけども、やっぱり宗教二世問題で苦しんでいる二世たちを救おうとした時に、さっきA子さんが言ってたみたいに否定していくと、負の思いがさらに増幅されていくんですよね。これは本当に解決策ではないと。多分現役も元も同じ意見だと思うんですよ。

そうなった時に、じゃあ私たちの過去の苦しみはどういう意味があったのか、とか整理してあげることがやっぱり重要で、もちろん教会から引き離した方がいいのであれば、それだっていいと思っていますし。

でも否定が全て解決ではないっていうことは、全国民同意できるのではないかなと思ってるんですよね。

その上で、シェルターというか、ケアする人、ケアする機関、ケアする機会をどうやって提供できるのかっていうご意見だったと思うんです。

価値観の継承

D男さん(家庭連合、壮年)
例えばですね、お坊さん、代々続いて住職がいると思うんですけど、継承者がいなかったらお寺を出ないといけないんですね。それで空き寺になるわけです。空き寺には本寺からお坊さんを連れてくるっていうか。

それでお寺はあるけれども住職は変わるんですね。それは神社においてもそういう風習がある。

だから宗教は価値観を継承していく部分があると思うんですよね。これが新興宗教の場合は「これが正しい!」みたいな、いわゆる価値観の特異性が強い。

これが、時代が経過すると文化の中に宗教も浸透していくというか、あるいは宗教が文化化していく。そういう風に一般社会に、なんて言うんですかね、入り込んでいく。そうすると見方がちょっと変わってくると思うんですよね。

私が今いくつかキリスト教会に出入りさせていただいて、そういうところでも、クリスチャンの三世とか四世とかいるんですよね。それで、活き活きと発言している、そういうところもある。

また、さっき話したようにお寺は継承者がいなければ、廃寺になっちゃうわけですよね。

こういう意味で、二世とか三世と一概にですね、ここに問題があるっていう視点は、ちょっとどうなのかなと。宗教の継承っていう、そういう観点で、論議していくっていうことも必要なんじゃないかな。

二世、三世と歌舞伎なんか代々続いていくわけです。自分が例えばパン屋だったらパン屋続けたいと思うし、お父さんが漁師だったから、大学行ってたけど、やめて漁師になったとか。こういうわけで、価値観の継承をとるんですよね、価値観をどう継承するか。

背後の親の愛情を感じて解けた恨み

E男くん(家庭連合、大学生)
当事者というか、二世としての感覚をお話しできればいいかなって。

自分の親もかなり厳しかったので。いろいろ制約とかもなくはなかったんですけど、自分の中で結構大きかったのは、自分の思いとかを伝えた時に、それに対して宗教の言葉というか、教えを通して諭されるっていうか、そういう答えで、確かにそれは正しいんだけど、でも、そういうことじゃないって言うか、結構そういうことが大きいのかなって。

さっきも一人の人間として、人格を尊重するって言われていたと思うんですけど、そう受け止めてもらえるっているっていう感じを求めているのかなっていうのは一つあるかなって思ったのと。

あとは、いろいろ親子間でも葛藤とかあったりはしたんですけど、それをどう解いていくかっていう話になった時に、自分は大学生になってから、いろんな人と話とかしたんですけど、相談して、「大変だったね」って同情されたり、話を聞いてもらえるっていうのは、一つの入り口としては必要だとは思うんですけど、ただ、それだけだと解決しないのかなっていうのが実感としてあって。

例えば、同情してもらって、それで親を否定されるっていうか、「お母さんがそれは悪いよね」みたいな感じになっちゃうとか、そういうのもありがちなのかなと思ってはいます。

でも自分の心の中では、そこまで言われると微妙な感じになっちゃうというか、それで、解けきらなかったところもあったりはしたんですけど。

自分の中で恨みとか、抱えてた思いがどうやって解放されたかなって思った時に、自分が恨みに思ってたその裏側にあった、親の心だったりとか、愛情だったりとか、そういうものに気づいた時に解かれるのかなというのがあって。

あとは、信仰の継承っていうことに関して、これは結構、一筋縄でいかないところもあるのかなと。

なんか子供に任せるというか、放任するというか、それも本然なのかなっていうか、理想的なのかなっていうのは、ちょっと分からないところとしては、正直なところとしてはあります。

二世は、どちらかというと親がかなり強烈に信仰を持ってて、それで「信仰するように!」って結構言われたりとかするんですが。その反動で、逆に三世の教育っていうのを考えた時に、ちょっと引き気味になっちゃうというか、そうなったりもするのかなって思ったりはするんです。

なんかそこらへんの塩梅というか、ちょっと難しいなっていうのは、自分もそうですし、他のメンバーたちを見ながらも、思ったりはします。

20歳すぎたら自立して社会に出るのが普通だった昭和

中川さん(キリスト教会牧師)
僕は父親と仲良いから、家庭っていうと父親との関係だけなんですよ。だから家庭連合さんすごいなと思って見てて。

それで、僕らも何らかの二世じゃないですか。僕は父親が不動産屋だから、不動産屋の二世って言ってもいいし、戦後教育の二世でもいいし。

それが今、病的になってますよね。僕はX(旧Twitter)で、「二世ってどういうことなんだろう」と思って、それで「教えてください」って入ったところ(Xのスペース・コミュニティ)が家庭連合さんのアンチだったんですよ。でも、よく分かんないんで、なんか言ったら、すごい吊るし上げられて、「なんでここに来てんだ!」って。

僕が言ったのは、「二十歳過ぎたら、もう自己責任だろ。親のせいって。三十代が、もういい加減に大人になれよ」と。それで、「いつまで子供みたいなこと言ってんだ」って、たしなめて。

僕らの時なんか、二十歳すぎたら自立してね、捨てられるように社会に出るっていうのは昭和ですよね。育ったら捨てられる、みたいな。

社会で鍛えられる、そういうんだと思ってたら。それでXで文句言ってる人たちに、僕が「歳いくつなんですか?」って聞いたら、「もう40で」って。それで「え~、だったら自己責任だろ!」って言っちゃったんですよ。そういうの僕はちょっとよく分かんなくて。

教会について言うと、そのキリスト教会って基本的に価値観押し付けるっていうのか、教会ってフォーマットがあって、結局のところ、その価値っていうか、それを自分がどう学んで、自分がどうそこで歩むかっていう、それに尽きるのかなと思って。

だから自分で見つけるしかないって。それを自分で見つけられる場が教会かなと、それぞれが。

ゼニガタさん(Xのハンドルネーム、家庭連合、壮年)
私も中川さんと同世代なんで、「戦後教育二世」という言葉には非常に共感するものがあるのですが、この場で言いたかったのは、二世の皆さんは親から信仰を押し付けられたというプレッシャーとか感じてきたんだろうけど、私の立場からすると、なんで左翼がかった社会の教科書で、思いっきり左翼の教師に授業を受けなきゃいけないのか。

最近、(信仰教育を受けたことを)「振り返ったらあれは虐待だった」とか言ってるけど、左翼教師の授業を受けなきゃいけないっていうのは「私にとって虐待だった」と言いたい。

なんか「中学校で統一原理を教えなかったら虐待だ」とか言って裁判を起こしたりとかしたいぐらいの気持ちはあるんですね。

一世からすると、そういうへんてこな世の中の学校に通って、へんてこな教育を受けて、何が正しいのか分からなかったところに、統一原理、統一教会というものに出会わせてもらったんだから、すごく良かったなっていう感覚なんです。

だから今言われてる宗教問題とか宗教二世問題っていうのも、それって本当に宗教問題なのかとか、それって本当に宗教二世問題として扱うべきことなのかって。

要は、一般的な法の違法性という基準で見つめた時に、これは違法である、詐欺であると言ったら、どういう信仰に基づいてやったとか、どういう思想に基づいてやったか関係なく、それは処罰されなきゃいけないし、宗教的な理由があろうがなかろうが、虐待だったらそれを何かしら処置をしなきゃいけないというのが基本的なことですよね。

あとは宗教二世問題で、大体は家庭の中とかその教団内部の問題であって、社会問題化されちゃうっていうのはおかしくないかって。

キャッチするのかスルーするのか?

小嶌さん
「宗教によって全部が不幸とかそういうことではない」っていう主張をずっとし続けた立場として、同意見なんですけど。

一方で、「これは結局家族の問題だ」と、「一人ひとりの家庭によって全く180度変わってくるので、対処できません」ってやってきた結果が今であるとも思うんですよね。

どうしたらいいのかっていうのは、「二世の会」でもよく話し合いますし、なかなか多種多様が故に対処っていうのが本当に見つからないっていうのも事実あるんですけど。どうしたらいいんですかね。

中川さん
あのね、家庭連合さんが、レベルが高いからですよ。

他のところなんか活動家がそう言ったとしても、もうどうしていいか分かんないから放置ですからね。だってキリスト教会なんて、別にそんなこと喋ってないです。

家庭連合さん、さすが家庭を大切にしてるから、そこでなんとか応答しようとか、キャッチしちゃうから向こう側が「ガ~!」と。

逆に全部スルーしちゃうと、あいつら言ってもダメだってなって。それでキャッチできるてのはすごい。

小嶌さん
じゃ、「キャッチしない」というのが大事なんですね。

参加者(笑)

中川さん
でも、そうやって問題の議論に載せることができるというのは、すごいことで。

こういう問題があるからって、そうやって表に出して、やっぱりレベルが高いなと。

小嶌さん
ありがとうございます!

F男さん(家庭連合、壮年)
拉致監禁されて抜け出してこれたっていうのはあるんですけど、その中でどうして拉致監禁から抜け出したかっていうと、要は、親と口論して戦って、親が60日ぐらい経った時にもういいということで抜け出すことができた。

  • (「拉致監禁」問題とは、家庭連合の信徒を拉致監禁して強制脱会させようとした事件で、その被害者は4,300人以上とされる)

その時にどういう形で戦ってきたかっていうと、自分のことを反省しすぎると、抜け出せないなって思ってやってきたんですね。

確かに親子関係いろいろあると思うんですけど、家庭連合も、あんまり「だからダメだ」とか思わない方がいいかなって思う時がよくあるんですよね。

小嶌さん
「二世の会」やってると、いろんなメッセージがたくさん来るんですけど、「これはあなたの未熟さよ」っていう人もいれば、さっきおっしゃってたみたいに、「もう二十歳過ぎたら自分で自分の人生責任持て」って言う人もいれば。

一方で、これ虐待でしょと、親になれきれてないケースってやっぱりあったりして、そのサポートをどうするのかとか、なんかそういう観点ってどうなのかなと。

中川さん
社会から要請されている問題があって、それは二世の問題だから、小嶌さんなんかの「二世の会」って絶対必要だと思うんですよ。

それに対して、ちゃんと真摯に応答してる姿があるので。それが大事で。

あと、僕自身は父親から保守思想を継承したんですよ。 父親が喜んで、なんか楽しそうに語ってたんですよね。

子供にはそれが残るんじゃないかなと。だから、子供といる期間でね、さっき二十歳って言ったけど。二十歳までに自分が心からこれ大切だとか、良いとか、そういったことを見せれば、子供は親のその姿で受け取っていくんじゃないかと僕は思うんですよね。

四十歳過ぎて信仰から離れる人もいれば、四十歳過ぎてから帰ってくる人もいるんですよね。だから、それまでに何が残るかっていうことが大切かなと。だから楽しんで。楽しそうじゃないですか、家庭連合さん。楽しそうに子供に伝えればいいんじゃないかなと。

マイノリティ性は誰もが持っている

G男さん(新宗教の信徒)
今日、来る時に妻と話してたんですけど、マイノリティっていうのを考えた時、宗教に限らず、何らかしらのマイノリティ性みたいなものをみんな持ってるんじゃないかなって思うんですよね。

例えば、僕なんかは三歳から海外に行ったんですね。それでヨーロッパの国の人たちの中に、日本人として入ったわけですよね。そうすると、完全にマイノリティなわけ。それで、中国人だ、みたいにいじめられたりとか。日本に帰ってきたら、ちょっと慣れない日本人の中で、なんか違う感覚持ってるとかですね。

でも、例えば離婚してお父さんがいないとか、それもある種のマイノリティですし。

だから宗教に限らず、マイノリティって、みんなが持ってる、ちょっと変わった趣向だったりとか。

僕も教会のことを言って、「こんな宗教をしています」って、いきなり言っても誰も分からないので。

そういう意味では、布教の難しさっていうのは、どこの宗教も感じてるはずだと思うんです。

ただ、その一人の個人に対してしっかり話し合うとか。さっき信頼してる人が報道を見て寝返って、みたいな話もありましたけど、それすら揺るがないくらいの信頼、土台を作っていく。

コミュニケーション量を質をちょっとあげながら、一人づつその人の抱えてる問題に寄り添うとか、何か役に立つことをしていきながら信頼関係を築いていく、そういうのを一人ひとりがやっていくっていうことに尽きるんじゃないかな、って私は思っています。

B子さん(G男さんの妻、新宗教の信徒)
ここで発言できるかどうか心配したぐらい、うちは人数も少ないですよ。二世問題っていうところでの二世の数自体が少ないんです。

中川さん
二世問題って贅沢な悩み!?

B子さん
そう贅沢な悩み。

そんな感じで、まだ布教って言ってもそこまでではないんですけど、私が感じたのは、どれだけ私たちがしてることで、人を助けられるかで人が注意を向けてくれるんですよ。

それで、うちの教会のある地域で掃除を始めたんですよ。12年間その掃除活動してるんですけど。勝手に集まって、やり始めていたら、地域の人たちから、「すごい、いつもありがとうございます」って言われて。それで教会のこと言ったら、地域の人たちは知っていて、「あの人たちなのね」っていう感じで、「いつもありがとうございます」って、すっと受け入れてもらえたんですよ。

それで、「毎週どこから来てるの」って聞かれて、「実は何々区ですよ」って言うと、「そんな遠いところから、わざわざここの掃除になんで!?」とか聞かれて。

初めてそこの掃除を始めた時に、町の人たちは、「君、罰ゲームかなんかで負けたの、こんなところ掃除する人いないよ」って。それでもやり続けていたら、だんだん話すようになって。

やっていくと、私たちっていうのを認め始めるようになって、地域の人が出てきたりして、綺麗になっていく。少しずつ秩序が入っていって、ごみの捨てられ方が変わってくる。ゴミの捨てられられ方が変わってくると、例えば自動販売機の回収の人たちもたくさん回収してくれて、ゴミがたまらないようにしといてくれるってなると、「ゴミ箱もない」って、いい状況が生まれ始めたことで、町の人たちも「自分たちでもできる」に変わってくれたんです。

その時から町の人たちは、変えられるっていう、こう意識が変わったっていうことで、そういう意味で多分受け入れてくれたのかなって思うんですけども。そういう意味で、助けるってすごく大事だなって。

宗教者としてどんな提案をしていくことができるのか

A子さん
思ったのは、他宗教の方々とか、いろいろ話してみてもそうですけど、宗教者って、人格的にも成長していこうというのがベースにあって、「宗教虐待」という言葉自体がやっぱりどうなのかなとは、私も思うところがあります。

じゃあ宗教に入ってる親の子供たちと、別に宗教に入ってない他の子供たちとの虐待の数はどう違うのかとか、そういう統計って全然世の中に出回ってないですし、そもそも宗教虐待ってなんなのか、統計から数字からちゃんと出してほしいな、というのが私の一つの願いではあるんです。

あと、今の政府のシェルターを作ってというのがあったと思うんですけど、そこに元信者を起用して、それでシェルターで隔離というか、シェルターで第三者が入っていきましょうというような政策だとは思うんです。

それに対して私たち宗教者がどんな提案を国にしていくことができるのかというのは、問題提起として私たちが持っていくべきなことなのかなとは思っています。

さっき、すごく良い発言があったと思うんです。親の背後の愛を感じて自分は転換されたんだみたいな。

やっぱり宗教者として、そういうふうに持っていきたいっていうか、親には親として、宗教者として、愛を持って接してきたんだよ、っていうのは大前提としてあってほしいのは、私としては思うんです。

そういう背後の親の愛があってこうなったというのは前提として、シェルターをするにしても、そういう前提としてそこはあってほしいですね。

いろいろ誤解もあったかもしれないけど、親の愛があった。

その上で信仰を選ぶかどうかとか、そういうのは本人の選ぶ選択ですよっていうような、やっぱりそういうされ方をしてほしいな、っとは思うところです。

宗教者として、そういう政府の政策とかにどういう風な提案ができるのかとか、そういうのはいろんな宗教の方々が膝を付き合わせて考えていくっていうのは結構大事なことなのかなと思いました。はい、以上です。

とも
ありがとうございました!

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