私のこと ~その3~

こんにちは、水泡と申します。
不定期に「私のこと」を書かせていただいております。
ほとんど自分の「暗い自己嫌悪しかない内容」しか書いていないのですが、その2も「いいね」をもらっておりまして。

なんか、本当に申し訳ないです……。

もっと楽しく、ためになり、生活の質が高まるような作品がこちらのサイトにもあるでしょうに。何故にわざわざ顔も知らないおっさんの暗い話を見て(もしくは見ずして「いいね」して下さっている?)評価していただいているのか……。謎です。

とはいえ「いいね」していただいことには変わりないので、改めて感謝を述べさせていただきます。「いいね」して下さった方々、本当にありがとうございます。

さて、では本日の「私のこと」なんですが、本日はとある出来事を経て決定的に感じたある事柄についてお話させていただきます。

小難しく語るほどのことではないので簡潔に。
運動とか芸術は「できる人間に任せてしまえばいい」というお話です。

私は中学時代、身長を伸ばしたいという理由でバスケットボール部に入っていて、それまで一度も運動に手を付けて来なかった私でも、涙や鼻血を出しながらなんとか三年間やり遂げて中学を卒業しました。ただこの部にいたメンツの半分がミニバス(いわゆる小学校からバスケットボールに慣れ親しんでいた者たち)経験者で、最初の一年は努力で評価されていましたが、二年になった時点で完全な実力主義で構成され、三年には下手な先輩は受け狙いの面白部隊として位置づけられていました。

ここで間違ってほしくないのは、私は決して努力そのものを無意味と断じたいわけではありません。その時頑張った努力の数は決して今に生きていないわけではないですし、あの時に顔面でボールを受け取って鼻血塗れで走り回った痛みと屈辱は今に生きていると信じています(後々あの痛み比べれば……となっていました)。ただ努力を重ねて「必ず」結果が出るかと言われるとそうではないのだと中学の私は感じてしまったのです。

運動や芸術は特にそうで、どれだけ自分が血反吐を吐いて研磨してもなんの結果も生み出さずになくなることが往々にしてあります。今の世の中は「みんなで一番になろう」という吹聴が流れていますが、中学でさえれっきとした順番と順位が位置づけられ、どんなにがんばっても結果は残せず悔しさと怒りに苛まれることになります。これは高校、大学、社会人になっても変わらなかったですし、時間が経てばたつほど才能と順位が重要視されていきます。つまりは「生まれ持った才と常に一番になることを社会が求める」流れに身を任せて行くわけです。

そこで子どもたちは気づくわけです。
努力してもできないことはあるんだ、と。
その一人が私だったわけです。

その後の私は中学でもやっていた生徒会(万年下っ端役員)に入ったり、大学では新聞部に入ったりと文化系クラブの道を邁進していきました。スポーツは才能のある人間がする高尚なもの。そう振り分けて高校進学後は運動に関する一切を諦めたのです。

だからこそ運動のできる人たちには尊敬の念を抱かずにはいられないですし、うらやましくもあります。今の私ならサイクリングくらいはできるかなと思ってもいますが、お金がなぁ……。

え、お前「小説家」になりたいとか言ってたけど、それは「才能」なんじゃないかって? なれないかもしれないなら無意味だろ、って?

それは無意味でも良いんです。

何故かというと、運動はどんな個人競技でも「たった一人」で競技に参加するわけではありません。学校なら同じ部活の仲間、社会人になってもチームや支援が必ず周りにいます。そんな中、どれだけ精進しても大事な場面で自分のミスがチーム全体に負けを呼び込んでしまえばいたたまれません。これも中学で散々経験させていただきました。
ですが小説は余程悪いことを書かなければ、誰にも迷惑をかけません。一人で勝手に書いても批判も失態も自分だけのものなので受け入れられます。

叶わなくても勝手に書ける。それが物書きの良いところだと私は思います。