顔考
昔、石膏デッサンの下手なやつは、どの像を描いても顔が本人に似る、という都市伝説があった。
これには多少のエビデンスがあって、誰でも人生で一番よく観察している顔は、たぶん自分自身の顔なので、無意識のうちにそれが出てくる、という理屈である。
毎朝鏡で見る顔こそが、ベーシックなものとして、意識に刻み込まれるのではないか、というわけだ。
確かにわたしの経験では、生徒に自画像を描かせるのと、二人組にして相手を描かせるのでは、明らかに自画像の方に良い作品が多かった。
つまりこれは、相手の顔をジロジロ観察するのが憚られる、という思春期の生徒側の事情で、観察しなくても、何となく頭に入っている自分の顔の方が、よりうまく描けるということなのだろう。
これとは別に、世界史の最初の方でお馴染みの「アルカイックスマイル」というものがある。
洋の東西を問わず、文明の黎明期に作られる人像の顔は、みな微笑んでいる、という不思議な現象である。
どうも人間には遺伝子レベルで刻み込まれた、原初的な「顔」があるように思われる。
例えば、どんな文化文明においても、悪魔、鬼、怪物の類の顔は、驚くほど似ている。
目はつり上がり、口は大きく裂け、顔色は青いか真っ赤である。
人間は、そういう顔に原初的な恐怖を抱くのである。
アルカイックスマイルもまた同じで、人が根源的に求める表情が微笑みなのであろう。
最近わたしは人物像を作ることがほとんどなのだが、これに特にモデルがいることはない。
なので顔を作るとき、当然それは私の頭の中にある「人の顔」のイメージの具現化である。
前述の理屈だと、それは自分の顔に似てきそうなものだが、さすがにそこまで素直ではないので、自分の場合は、何やら中性的な、年齢不詳の顔になる。
何を作っても、だいたい同じ印象になるので、どちらかといえばアルカイックスマイルに近い、深層意識の顔だと思う。
いつもは粘土で作る顔を、今回は木彫でじっくり彫ったので、ちょっとそんなことを考えた。