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人生修養

わざわざリンクは貼らないが、昨日自分が書いた、なんというか書きっぱなし、言いっぱなしみたいな日記はやはりよろしくないように思う。

昨日は昨日で、どうしてもそんなことを言ってしまいたい気分だったわけで、間違ったことを書いたとも思わないが、でもまぁ自分の発信としては、ガサツであったなぁ。

noteを初めて一年半、いつの間にかフォローする方も、していただいた方も増えた。
毎日のように文章を読ませてもらう方も多い、もちろん読んでくださる方も多かろう。
普段そこまで考えないのだが、やはり自分は人に読んでもらうことを前提に文章を綴っているようだ。

一方、自分で読んでいて心地よいのは、日々の出来事や自分の思いを、淡々と、自分の言葉で、無理なく発信している方々で、そういう文章は読んでいて疲れない。
そして、その中に意図的か、そうでないかに関わりなく、書き手の人生観なり人間性なりが透けて見えるものに出会えると、少し得をした気分になる。

これまたリンクを貼ったりはしないが、例えばフォローしているお一人に、毎回、日記形式でちょっとした愚痴などを書いた短文の最後に「やれやれ」の一行で締めている方がいる。
ところが、ごくたまに「やれやれ」ではなくて「うきうき」だの「ぷんぷん」だので終わっていることがあって、そういうのを見ると、会ったこともないこの方の人生にちょっとだけ触れたような気がしたりする。
たったそれだけのことで感じられる機微が楽しい。

あるいはまた、いつも鋭い視点で、世相だのドラマだのを俎上に上げている、とても知性を感じさせるnoterの方。
その視点を楽しんで読んでいると、どの文章も最後はこの方の「人生」へと収束していく。
おそらく一つ一つの文章を自分に向けて書かれているのだろう。
そしてそれによって、人生のわだかまりに、何がしかの区切りというか相対化を試みる作業が、読者である自分にも、ちょっとしたカタルシスをもたらすのである。
これは憶測でしかないけれど、自分に向かっていても、ちゃんと人が読むことを意識していて、理路整然とした文章が心地よい。

毎日記事を上げていて、内容は9割以上、お子さんの動静と飼っているペットの様子、という方もいる。
特に深く掘り下げるでもなく、本当に淡々と毎日の出来事を書かれている。
劇的な出来事も、過去の思い出も出てこない、ずっと日常である。
はじめ、自分はなぜこの方の日記に惹かれるのかわからなかった。
けれど、お子さんと一緒に何を食べたとか、お子さんが何を買って来たとか、そういう記述こそがこの方の人生の幸せなのではないかと思い当たった。
幸せに感じることを、ただ書き連ねられる幸せである。

人生の断片を、毎日ちょっとした小説風に上げておられる方。
ショートショートかと思いきや、別にオチもないし、数々の出来事は唐突に語り始められて、唐突に終わる。
どれも本当に作者の体験なのだろう。
側から見ていて、ずいぶん楽しい思い出がたくさんあるように見えるのだが、多分そうではなくて、もともと体験自体を楽しめる方なのだと思う。
読ませる力もその視点も、稀有な才能である。

いつまで続くかわからないが、私ももうしばらくこのプラットフォームで駄文を連ねると思う。
どうせなら楽しい話を書きたいし読みたい。
結局「文は人なり」なのである。

最初に戻って、だから説明も何もなくただ思いをぶつけるような、雑な文章はよろしくない、とまぁそういう話である。

せいぜい人生修養に励もう。


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